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第1章 民族の誇り

 

 

[1] クリー文字の考案

   James Evans(1801−1846)

 

 インディアン伝道に生涯を献げたジェームズ・エバンスは、ハドソンベイ社の陰謀によってカナダを追われた。文字を持たないインディアンが聖書を読めるように考案したクリー文字は、恣意的で白人の押しつけだとされ、彼の業績は今日もなお評価されていない。

 

 イギリスの港町キングストン・アポン・ハルに生まれる。父ジェームズSr.は船長で、エバンスも子供のころは船乗りになって外国を旅することにあこがれたが、父は船の時代は間もなく終わると考え、息子を学校に入れて商業を学ばせた。しかしエバンスが最も才能を発揮したのは外国語だったという。

 1820年に家族がカナダに移住したのを受け、彼も2年後に移民してオンタリオ州ロリジナルで教職に就く。だがウイリアム・ケース牧師がインディアン教育の必要を説いているのに意気投合して、1827年英国ウェスレー派宣教団に加わり、オンタリオ州ライスレイクのミッションスクールでオジブエ族インディアンの教育を始めた。

 その地で彼は丸太小屋の学校、教会、邸宅を自力で建て、生徒の半数は英語が読めないというクラスで、オジブエ語で聖書を教えた。彼の語学力には目を見張るものがあり、創世記、詩篇、讃美歌を翻訳し、オジブエ語─英語対照の単語帳さえ作っていた。これに驚いたケース牧師は、エバンスをニューヨークに派遣し、1837年ミッションスクールのテキストとして「英語とインディアン語の 綴りと翻訳」のタイトルで出版させた。

 しかし英国聖書翻訳協会の評価は、「明快さに欠テキスト ボックス: クリー文字表。エバンスは8つの子音字と4つの母音字を考案し、長母音は母音字を添えて表記した。長音符号、終符号、下4行の子音は後に追加されたものである。ける」と手厳しいものだった。インディアンの言語では多くの単語が連結し、一つの文が一つの単語にまとまる(例:彼はそれを水中に入れた→Pukustowahum)という特徴があるので、ローマ字で表記したのでは長くなってしまうのだ。

 

 1839年、ハドソンベイ社総裁ジョージ・シンプソン卿がミッションを訪れ、ルパーツランド(今の中西部全域)に宣教団を派遣したい旨を告げる。当時インディアンの間ではキリスト教熱が盛んになり、神のみことばを求めて続々と都会へ南下して来るため、北部での毛皮交易は困難になりつつあった。そこで彼らをインディアンの部落に留めるため、総裁はミッションを設立しようと考えたのである。こうして翌年北西インディアン・ミッションが設立され、エバンスはその代表としてノルウェーハウス(現マニトバ州)に派遣されることになった。そのほか総裁と親しいウイリアム・メイソン師がラク・ラ・プリュイに、ロバート・ランドル師がエドモントンに、ジョージ・バーンレー師がムース・ファクトリーにそれぞれ派遣されることになったが、メイソンはピーター・ジェイコブス師とともに赴任することに難色を示した。それはジェイコブスが借金を抱えていることや、女性にもて過ぎてしばしばトラブルを起こしていたからである。そこでエバンスはヘンリー・シュタインハウアー師をメイソンにつけることにした。インディアンの彼は、幼いころ両親に捨てられていたのをケース牧師テキスト ボックス: 「綴りと翻訳」から。左はオジブエ語、右は英語。に拾われ、聖歌隊に加えたところ抜群の歌唱力と利発さを発揮し、ヘンリー・シュタインハウアー氏の養子となって養父の名をもらい受け、インディアンと白人の両方の文化と言語を会得し、インディアンには珍しくアッパーカナダカレッジを卒業し、エバンス家に住み込んだこともあり、エバンスは絶大な信頼を寄せていたのだった。エバンスは妻メアリーと娘のクラリッサ、そしてジェイコブスとともにカヌーに乗り、ノルウェーハウスまで3,000キロの行程を2ヶ月かかって赴任した。

 そこでのエバンスの仕事は、クリー族インディアンに聖書、英語、算数を教えることだった。当時西部開拓は着実に進んでおり、インディアンはハドソンベイ社に売るためビーバー狩りに走ったり、森林を伐採したりして自然を破壊するのみならず、魚撈や農耕や狩猟など古くからの生業を捨て、伝統的生活は破壊されつつあった。またその見返りにもたらされた酒が、歴史的に酒を知らなかった彼らを堕落させていった。このままではインディアンは植民地の奴隷になってしまう、そう考えたエバンスはよりいっそうの教育が必要だと感じたが、いかんせん本がなかった。第一、インディアンの言語には文字がなかったのである。

 1840年のある夜、エバンスは部落の中にともるいくつかの蝋燭(ろうそく)の明かりを見つめていた。それは線でつなぐと、ちょうど夜空に輝く星座のようだった。そのとき彼の脳裏に一つのアイデアがひらめいた。彼は急いで家に戻ると、おもむろに机に向かった。

 「綴りと翻訳」の不評は、彼にとってはいい経験だった。クリー語はわずか4つの母音と8つの子音からなり、合計36の音節があるが、音節が子音で終わることはほとんどないため、子音と母音を合わせて一音節を一文字とする。そうすれば長い単語も少ない字数で綴ることができる。また4種類の母音は、一つの子音字を上下左右に反転させて表すようにすれば、覚える文字は9種類になるため、文字を知らないインディアンにも覚えやすいだろう。こうしてエバンスのクリー文字36文字は生まれたのだった。

 だが次に印刷しなければならない。彼は粘土、チョーク、パテ、砂などで鋳型を取り、古い茶箱の裏打ちと弾丸から鉛を取って活字を作り、白樺の皮を紙の代わりとし、毛皮プレス機を印刷機に改造し、妻は暖炉のすすを魚の油や動物の血液と混ぜてインクを作った。こうして18401013日、世界初のクリー文字テキスト ボックス: 1841年にエバンスが鹿皮に印刷したクリー語の祈祷書。の本が印刷されたのである。それは鹿皮で装丁された手作りの、わずか16ページの聖句と讃美歌の本だった。そしてこれがロスビル・ミッション印刷所の始まりとなるのである。

 

 1842年、エバンスは翻訳を進めるためメイソンとシュタインハウアーを呼び寄せ、ジェイコブスと交替させることにした。ジェイコブスは有能な教師だったが、インディアンの少女に裁縫を教えているマギー・シンクレアが、生徒の前でハンサムなジェイコブスに言い寄っているのを、エバンスは快く思わなかったのだ。このときのマギーの恨みが、後に事件を惹き起こす引金となるのである。

 さてエバンスはその年、新しいミッションの設置を申請するが、総裁に却下されてしまう。そればかりか総裁は、交易にたずさわるインディアンに、日曜日も働かないと食糧と弾薬を支給しないと通告したのである。彼らが生業を捨て、ビーバー狩りで生計を立てている今となっては死活問題だった。しかし会社にとっては、あくまでもインディアンを白人の支配下に置くために布教を奨励したに過ぎないのに、その結果彼らは酒を買わなくなり、日曜日に働かなくなったため、方針を見直さざるを得なくなったのである。

 そこでエバンスは翌1843年、フォートゲーリーへ行って総裁に抗議した。当時広大なルパーツランドがハドソンベイ社の私有地で、総裁が帝王として絶大な権力を持っていた時代のことである。

総裁は言った。

「個人の宗教的信条が会社の意向と一致しないときは、会社の方を優先させるべきだ」。

だがエバンスは答えて言った。

「総裁は会社の意向を神の律法に優先させるのですか。我々は神に仕えているのであって、ハドソンベイ社に仕えているのではありません!」

「君は会社の問題に口出しするのかね?」

「いいえ、総裁が教会の問題に口出しなさっているんです。総裁がお考えを改めないようでしたら、私はこの件を原住民協会に提訴します。お望みでしたら、陛下と陛下の議会に提訴しても結構です」。

テキスト ボックス: ジェームズ・エバンス。そう言うなりエバンスは部屋を出て行った。総裁はこのときエバンスを追放してやろうと心に決めた。

 

 このころ、メイソンがエバンスの娘クラリッサに言い寄るという事件が起こった。エバンスはメイソンを転勤させようとするが、総裁の妨害にあい頓挫する。メイソンはミッションに留まり、総裁の遠縁にあたるソフィアと結婚して代表補佐に昇進した。

さてミッションは1845年、英国聖書翻訳協会から印刷機を提供された。これはエバンスが5年も前に注文したが、ハドソンベイ社が何かと理由をつけて発送せず留め置いたものだった。しかも用途は宗教関連に限り、配布前にハドソンベイ社に提出し検閲を受けることという断りがついていた。インディアンを無知なままに留めておきたい会社が、クリー語の大量出版を大衆教育への突破口にしようとするエバンスに釘を刺したのである。このころシュタインハウアー、ジョン・シンクレア、メイソン夫人らはマタイ福音書の翻訳を終え、エバンス夫人とメイソンは植字にいそしみ、この分なら2年以内に完全な聖書の印刷ができるとエバンスは思った。だがこのとき彼は過労のため腎臓を悪くしていた。

 この年の冬、エバンス家に住み込みで家事手伝いをしていた、14歳のインディアンの少女イライザ・サクタハナが病で倒れた。彼女は体が虚弱なため、両親が野生の生活は無理と判断し、ミッションに送ったのである。この当時白人の持ち込む天然痘が、免疫を持たないインディアンを数多く死に追いやっていたが、ついに彼女も感染したのだった。

 エバンスが静かにイライザの寝室に入ると、彼女は眠っていた。熱を診ようとして、イライザの額にそっと手を当てると、彼女は目を覚ました。

「先生。先生はインディアンの娘でも、白人の娘と同じように愛しますか」。

エバンスはほほえみながら、

「もちろん愛するよ。具合はすぐ良くなるから、何も心配しないで早くお休み」。

そう言って静かに部屋を出て行った。

 

 その数日後、ジョン・マメナワトムの妻となっていた宣教団のマギー(旧姓シンクレア)が、メイソンの通訳デビッド・ジョーンズと浮気していたことが発覚した。エバンスは2人の解任を決意して出張に出る。ところが解任を恐れた2人は彼の留守中に、彼がイライザをかどわかしたとして逆にミッションに訴えを起こしたのである。そして、このような根も葉もないでっち上げを却下するべき立場にあった補佐のメイソンは、何とその噂を裏づける証人を集めるという、信じ難い行動に出たのだった。

 エバンスを慕う人々は、メイソンのところへ行って抗議したが、メイソンは言った。

「これだけ多くの証人がいる以上、公聴会はやらなければならないでしょう。エバンス師が本当に無実なら、彼はそれを立証すればいい」。

またシュタインハウアーもメイソンに抗議した。

「私は何年もエバンス先生といっしょに暮らし、ともに奉仕してきました。先生がそんなことをするなんて何かの間違いです」。

だがメイソンは、声をひそめてこう言った。

「これは会社の意向なのだ。エバンス師を追放しなければ、ミッションそのものがつぶされてしまう。そうなったら今までの苦労はどうなるのだ」。

ミッションを財政的に支え、ルパーツランドを支配しているハドソンベイ社には誰も逆らえなかった。そして目障りなエバンスを除きたい総裁の陰謀と、その親類でミッションの実権を握ろうとするメイソンの野心が結託していることは、誰の目にも明らかだった。

 

 1846年2月5日、エバンスがふだん使っている教卓に、メイソンが議長として席についた。そしてエバンスを慕うインディアンが大勢見物する中、公聴会が英語で始められた。冒頭マギーが証言した。

「エバンス師は深夜イライザの寝室に入り、彼女に『愛している』と言って誘惑しました」。

エバンスは必死で弁明した。

「誤解だ。彼女が私に『白人と同じようにインディアンも愛しますか』と・・・私のクリー語に間違いがなければ・・・言ったので、そうだと言ったのだ。私たちはクリスチャンの愛について語り合っていたのだ」。

 こうした激しい応酬の後、メイソンの判決が下った。

「エバンス師は証拠不十分のため無罪とする。だが師の言動は、神に仕える者としてはあまりにも軽率だったのではないか」。

そしてエバンスを非難した虚偽の証言が満載された議事録を、ロンドンの宣教団本部に送ると発表した。見物人からの異論はなかった。彼らは英語を理解できなかったからである。全ては筋書き通りだった。

 ところがその後マギーの夫ジョンが、公聴会の不公正を指摘したインディアンたちの証言をまとめてエバンスに差し出した。エバンスはこれを宣教団本部に提出しようとするが、ハドソンベイ社に郵送を拒否されてしまう。そこで彼は、釈明のためロンドンに行くことに決めた。

 エバンスが荷作りをしていると、インディアンが大勢集まって来た。

「みこころなら、来年の夏に戻って来るよ。それまで私が教えたことを忘れないでいて欲しい。君たちにはクリー語の福音書も、讃美歌もあるじゃないか。今度戻って来るときには、完全な聖書の印刷ができるだろう」。

彼らは答えて言った。

「はい、先生、ピナ・ワ・ウェプシムの月が出る日(6月の産卵期)に帰って来て下さい。それがだめでも、この目がかすんで、髪に雪が混じるようになっても、いつまでも待っています」。

 誰もエバンスが帰って来られるとは思っていなかった。そして実際、彼が戻って来ることはなかったのである。

 エバンスは妻子とともにカヌーに乗り込み、イギリスへの長い旅に出た。どこまでも続く大平原を見つめながら、彼は6年前にもこんな景色を見たのだな、と思った。もう二度とこの景色を見ることもないのだろうか・・・ルパーツランドでの6年間は、徒労に過ぎなかったのだろうか?・・・

「あなたがお与えになった仕事を私は成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。・・・

 あなたが私に下さったみことばを、私が彼らに与えたので、彼らはそれを信じたのです。」(ヨハネ福音書)

 川の流れのように、ただ導かテキスト ボックス: ウィニペグ駅前のクリー文字の看板。れるままに・・・。暖かく、まぶしい日差しが川面にきらめく午後であった。

*    *    *    *    *    *

 

 イギリスに着いて間もなく、腎臓を病んでいたエバンスは天に召されて行った。十分な仕事を成し遂げた彼を、神が取られたのだった。

 彼がイギリスに着く前、イライザが看病の甲斐もなく亡くなった。天然痘は猛威を振るい、ジョーンズとマギーの夫ジョンなど村人約30名の命を奪った。村人たちは口々に天罰だと噂した。

 メイソンはヨハネ福音書の翻訳を完成させ、1846年ロスビル・ミッション印刷所として初めて、53のページに聖句が5節ずつ記されたヨハネ福音書を出版する。だがメイソンの嘆願にもかかわらずハドソンベイ社の援助は打ち切られ、1849年すべてのミッションはルパーツランドから引き揚げ、ロスビル・ミッション印刷所も歴史に幕を下ろした。メイソンは1854年に国教会牧師に転身し、1861年イギリスに戻って世界初のクリー語(スワンピー・クリー語)聖書刊行を指揮する。その年出版された聖書には彼の名だけが翻訳者として見返しに載ったため、クリー語翻訳が彼一人の手によるものであり、彼がクリー文字の考案者だと長い間考えられていた。これがシュタインハウアーの息子ロバートによって誤りであることが公にされるのは、実に1936年のことである。

 1872年、宣教団は再びルパーツランド伝道を開始する。現地に赴任したジョン・セメンス宣教師は、死に際の老婆に大至急来るように呼ばれ、急いで駆けつけるとその老婆は、

「ずっと昔、人に頼まれてエバンス先生の裁判で嘘の証言をしたことがある。でも神のみもとに行く前に告白できてよかった」。

と語ったと記録に残している。

 

 その後インディアンはアルファベットを使用するようになり、クリー文字は(すた)れていった。しかテキスト ボックス: 英・仏・クリーの3ヶ国語で書かれた碑文(マニトバ州ウィニペグ)。し国教会宣教師ジョン・ホーデンとEA.ワトキンズによってイヌイットに伝えられ、今日に至っている。そしてエバンスの名も歴史から忘れられていった。だが神のみことばは今日もなおインディアンの間で語られ続けている。

 

 

 

[2] 悪党ドンネリー一家─その伝説と真相

   James Donnelly Sr.       (1816−1880)

   Johanna Magee Donnelly    (1823−1880)

   James Donnelly Jr.      (1842−1877)

   William Donnelly       (1845−1897)

   John Donnelly        (1847−1880)

   Patrick Donnelly       (1848−1914)

   Michael Donnelly       (1850−1879)

   Robert Donnelly        (1853−1911)

   Thomas Donnelly       (1854−1880)

   Jane Donnelly(Mrs. Curry)  (1858−1917)

 

 ジェームズ&ジョハンナ夫妻はアイルランドのティッペラリーに生まれ、1841年に結婚。1844年カナダに移民し、1847年からオンタリオ州ルーカン郊外のビッドルフに住み、8人の子を生んだ。だがこの10人家族は、30年近くに亘ってこの地域の脅威であった。

 ジェームズSr.は、1857年パトリック・ファーレルに暴行を加え死に至らせ、死刑判決を受けるが、後に懲役7年に減刑されキングストン刑務所に服役した。1861年にはウイリアムとジョハンナが窃盗で起訴される。1869年ウイリアムが窃盗で起訴される(無罪)。ジェームズJr.とウイリアムがグラントン郵便局での強盗で起訴される(無罪)。1874年にはマーガレット・トンプソンとの結婚を妨害されたウイリアムが、マイケル、トーマスと友人3人を連れてトンプソン邸を襲撃し、父親のウイリアム・トンプソンに発砲した(命中せず)。1875年ジェームズJr. がトーマス・ギブス暴行事件で有罪判決を受ける。同年トーマスがジョゼフ・ベリーヒル暴行事件で有罪。1876年、マイケルがピーター・マッケラー脅迫で有罪。同年ウイリアムとジョンがジョン・ボーデン巡査暴行事件で有罪。1878年ロバートがサミュエル・エベレット巡査に発砲して懲役2年の有罪判決。1879年ウイリアムに不法侵入、家屋破壊、暴行の容疑がかかる(全て無罪)。同年ジョンが偽証と犯人(トーマス)隠匿で起訴される(無罪)。1880年にはパトリック・ライダー邸放火事件で、ジェームズ&ジョハンナ夫妻が起訴された。

 1880年2月3日、ジェームズSr.はライダー邸放火事件の裁判に出廷するため、翌日グラントンに行かなければならず、親しくしていたオコナー家のジョニー(13歳)を家畜の世話をさせるために家に招いていた。このとき長男ジェームズJr.は肺炎のためすでに亡く、五男マイケルは喧嘩が原因で殺害されていた。次男ウイリアム、四男パトリック、六男ロバート、長女ジェーンは独立して家を出ていたが、ジェームズSr.の姪ブリジット・ドンネリー(18581880)が1年前から同居していた。また三男ジョンも独立していたが、たまたまこの日実家に戻って来て、夜はウイリアムの家を訪ねそこに泊まっていた。

 翌2月4日早朝、キャロルの率いる自警団約30名は、村の治安を回復するためドンネリー一家の屋敷を襲撃。ジェームズ、トーマス、ジョハンナ、ブリジットを殺害し、屋敷に火を放った。オコナーはベッドの下に隠れて難を逃れた。

 続いて自警団はウイリアムの家を襲い、泊まっていたジョンをウイリアムと誤認して射殺。ウイリアムは命を拾った。

 事件後自警団の13名が逮捕され、キャロルとジョン・ケネディー、マーチン・マクラフリン、ジェームズ&トーマス・ライダー、ジョン・パーテルの6名が殺人罪で起訴されたが、オコナーという目撃者がいるにもかかわらず全員無罪となり、村のヒーローになった。

 セントメリーズ・アーガス紙は、事件テキスト ボックス: ウイリアム・ドンネリー邸。をこう報じている。

「どれほど多くの違法行為が行われたかを悔やむ人はいても、自分たちの住む地域に非常な脅威をもたらした家族を除去することを悔やむ人はいないだろう。ドンネリー一家は最悪の無法者であり、彼らの隣人は恐怖から彼らに不利な証言をすることができず、司法は彼らに有罪判決を下すには十分な後ろ盾を持っていなかった。結果的に彼らは罰せられることなくあらゆる種類の犯罪に手を染めたが、彼らのうちの何人かはその命をもって己の罪の代償を支払ったのだ」。

 カナダ史上に悪名高いドンネリー一家の物語は、20世紀初頭には忘れられていたが、1954年に出版されたトーマス・ケリーの“The Black Donnellys”が彼らの悪行をつぶさに述べたことで、彼らの悪名は以前にも増してとどろくことになった。だが1962年に出版された「ドンネリー一家死すべし」を書いたオーロ・ミラーは、その中でこう述べている。

「ドンネリー一家の物語は何度も語られ、今やほとんど伝説の域に達している。伝説は真実を深い地の底へ葬り去ってしまった。私は真実を掘り起こしたい。……私はこの事件の責任が、カトリックとプロテスタントとの相剋と、カナダ二大政党の争いにあると確信する」。

 

 1653年にイングランドがアイルランドを征服して以来、プロテスタントの入植が相次ぎ、カトリック教会の破壊が始まった。アイルランド人は勝手に父祖伝来の土地を取り上げられ、イングランドの不在地主に小作料を搾取される農奴と化していった。そうした状況の中1761年、イングランド人の土地の小作を拒否する白シャツを着た反英秘密結社「ホワイトボーイズ運動」が、ティッペラリーで発足。当初は地主の牧場を掘り返したり、フェンスを破壊する程度だったが、政府に弾圧されると次第にイングランド人やその協力者、ホワイトボーイズの脱盟者、オレンジ党員(アイルランドのプロテスタント)にリンチ、放火、家畜の屠殺などを行いテロ組織と化していった。指導者のニコラス・シェーヒー神父は1766年3月15日絞首刑にされ、死体は馬に引かれて八裂きにされ、その首はクロンメル刑務所の門の上に晒された(シェーヒー記念日)。当局は地下に潜行したホワイトボーイズを執拗に探し出し、次々と絞首台にかけたため、彼らは国外に逃亡した。その一方で、信心深いカトリック教徒は暴力をよしとせず、イングランド人とのつきあいを持ったため「ブラックフット」と呼ばれて忌み嫌われ、彼らもまたホワイトボーイズの報復から逃れるため国外に逃亡しなければならなかった。しかしホワイトボーイズは、世界中のどこであれブラックフットを見つけたときは容赦ない迫害を加えた。

ジェームズ&ジョハンナ夫妻は結婚後祖国を捨てカナダに移民したが、差別と偏見から逃れることはできなかった。夫妻は1847年からビッドルフに居住し、ローマン・ラインに面した不在地主ジョン・グレースの100エーカーの土地に「スクワッター」として勝手に居すわった。それは当時、土地を買えない貧しい移民たちによく見られた行動だった。ジェームズSr.は勤勉に働き裕福になったが、彼は英国国教会に献金するブラックフットであり、ホワイトボーイズたちが彼の行動を見過ごすはずはなかった。

パトリック・ファーレルは、1855年ビッドルフに着いたとき自分が借りたはずの土地にドンネリー一家が居住しているのを見て驚き、法廷に訴えた。調停案に両者とも納得せず、1857年のある日酔った勢いで喧嘩になり、ファーレルが鉄棒を掴んで殴りかかろうとした瞬間、ジェームズSr.はハンドスパイクでファーレルの頭部を殴って死なせてしまった。ジェームズSr.は死刑を宣告されたが、ジョハンナが総督に助命を嘆願し懲役7年に減刑された。これは村の抗争の発端となった。ジェームズSr.は冷酷な殺人者、ジョハンナは意地悪ばあさん、息子たちは乱暴者という風評ができ上がり、村で何か事件が起こるとそれは必ずドンネリー一家のせいにされるようになった。

 1857年、ドンネリー一家と親しかったアンドリュー・キーフの酒場が破壊された。犯行グループは無罪となったが、この事件を審理したテキスト ボックス: ドンネリー邸の納屋。焼失を免れ、事件当時から残る唯一の建造物である。判事ジョージ・スタッブは何と犯行グループの一人だった。1861年のウイリアムとジョハンナの窃盗事件を裁いたのもスタッブだったが、証拠がなく無罪となった。1867年にはドンネリー邸の納屋が放火され、続いてキーフの工場も放火に遭った。

1873年には次男ウイリアムがロンドン−ルーカン間を結ぶ路線駅馬車を開業し、既存の公営駅馬車を凌いで繁盛する。しかし競争会社であるフラナガン&クローリー駅馬車との間で、この地域では有名な「駅馬車抗争」を生むことになる。両者とも相手の馬車を破壊し、馬小屋に放火し、家畜に暴行を加えた。ドンネリー一家はこれで悪名をとどろかせ、抗争は10年続いた後、駅馬車事業の廃業によって終結した。

村人たちはそれまでは、納屋に放火し家畜を殺していた。決して母屋に放火はしなかったし、人は殺さなかった。事態が急速に悪化するのは、1878年にキャロルがこの地域に戻って来てからである。1879年にはジョン・コノリー神父が聖パトリック教会に赴任する。以前からドンネリー一家の悪評について聞かされていた彼は、治安を回復するため「平和協会」を設立し、盗難事件が起こったときは家宅捜査に応じることを誓約させた。だがドンネリー一家はこの誓約に加わらなかった。キャロル率いる自警団は、この平和協会の過激派によってこの年結成されたものだが、その真の目的はブラックフットに報復することだった。村で起こった事件は全てドンネリー一家に罪をなすり付け、次々と裁判にかけた。自警団結成直後に起こったウイリアム・トンプソン(マーガレットの父)の馬盗難事件では、キャロルが無断でドンネリー邸を捜索し、馬がそこで見つかったとでっち上げた。しかしドンネリー一家は自警団を不法侵入で告訴した。その後キャロルは警官となり、ドンネリー一家を村から必ず追放すると公言したため、村は一気に緊張した。ここで事態を急変させる事件が起こる。1880年1月のパトリック・ライダー邸放火事件である。この事件はライダーの自作自演の疑いが強いが、自警団はこれをドンネリー一家のしわざと断定して告訴した。だがドンネリー一家はそのとき結婚式に出ていてアリバイがあった。ジェームズSr.は彼らを逆告訴し、2月4日に公判が開かれることになり、進退窮まった自警団はついにその朝凶行に及んだのだった。

 七男トーマスはクリスティアーナ・マキンチャーと恋に落ち、逢瀬を重ねた。だがその両親はドンネリーを毛嫌いして、娘を村の外の学校に転校させ、二人を引き離した。トーマスは事件の夜、殺される前に生きたまま局部を切断された。

 ウイリアムが結婚を妨害されたマーガレット・トンプソンは、彼の幼なじみだった。だが彼女の父は大のアイリッシュ嫌いで、娘をドンネリーにくれてやるくらいなら、焼いてステーキにでもした方がましだと言って、娘を拉致し隠してしまう。彼女が当時ウイリアムに宛てた手紙が、カナダ国立公文書館に今も残っている。

 

 親愛なる友へ

 私が今元気で過ごしていることをあなたにお知らせします。そしてあなたも元気で過ごしていることと願っています。私があなたの前から去っていかなければならなかったことについて説明しなければなりません。大きな試練のために、私はどこへも行くことができず、手紙を書くこともままならないけれど、どうかお許し下さい。愛しいウイリアム、私をこんな目にあわせて私たちのじゃまをする人のところにいるくらいなら、死んだ方がましです。あなたが来て私を腕ずくででも連れ出してくれない限り、私たちの結婚の約束を果たすことはできそうにありません。もしあなたがこれまでと同じように、今でも私のことを思っていてくれるなら、どうか私を連れ出して下さい。それがだめなら、オファ郵便局へ手紙を送ってくれたら、私はそれでがまんします。人々が私を家から連れ出しに来たとき、あなたの手紙が彼らの手に渡らないように燃やしてしまいました。今は火急のときなので、こんな手紙になってしまってごめんなさい。今はこれだけしか言えません。

                                           あなたの愛する

     マーガレット・トンプソン

 

 それから間もなくウイリアムはトンプソンの屋敷を襲撃するが、マーガレットの居場所をつきとめることはできなかった。そして彼女は父親に命じられるまま、むりやり別の男性と結婚させられてしまうのである。ウイリアムはその後ノラ・ケネディーと結婚するが、彼女はそのために勘当されてしまう。そしてノラの兄弟ジョン・ケネディーは、ウイリアムに並々ならぬ憎悪の念を抱いた。

事件の夜、「火事だ! ドアを開けろ!」という声がした。ウイリアムは目を覚ましたが、彼は慎重で外に出なかった。しかし弟ジョンがその声を聞いてドアを開けた。すると待ち構えていた銃口が一斉に火を噴いた。全身にテキスト ボックス: ジョン・ケネディー。30発以上の銃弾を浴びたジョンは、口から血を噴いて絶命した。そのときウイリアムは襲撃者の一人がこう言うのを聞いた。「義兄弟はあっけなかったな」。その声は妻の兄弟ジョン・ケネディーだった。彼は憎むべきウイリアムをついにしとめたと思ったのだった。ウイリアムは圧倒的多数の敵を前に、ただ声をひそめているしかなかった。自分がまだ生きていると知れれば、必ず命を狙って来るからである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

左から@次男ウイリアム、A三男ジョン、B四男パトリック、C五男マイケル、D六男ロバート(左)と七男トーマス(右)、E長女ジェーン。

 
 

 


 事件の翌年、生き残ったウイリアム、パトリック、ロバートの三兄弟は村を去り、それぞれアッピン、ソロルド、グレンコーに住んだ。

 駅馬車事業を繁盛させたウイリアムは、兄弟たちの中で最も賢いと思われていたが、生まれつき内反足を患っていた。アイルランドの古い伝説で「悪魔によって身ごもった子が、奇形の足で歩く」というものがあり、彼は物心ついたときから「内反足の悪魔」と呼ばれ、人々に蔑まれていた。自警団メンバーの一人ジェームズ・ライダーは死の床で、ウイリアムに会って罪の許しを請いたいと語ったという。だがウイリアムは、法的責任を取ることもなく土壇場で懺悔する態度に憤慨し、取り合わなかった。ウイリアムは52歳で世を去り、聖パトリック教会にある両親の墓に葬られた。

  ロバートは事件後はグレンコーに暮らしたが、後にルーカンに戻り、抗争に明け暮れた。兄ウイリアムは1883年に警官になったが、ロバートの乱行に悩まされ、1888年に辞職した。ロバートにはただ復讐だけがあった。彼は残りの生涯を、自警団メンバーの葬儀に参列するために生きた。誰かメンバーの葬式があると、後で必ず行って棺に唾を吐きかけたという。そしてまだ生きているメンバーには、

「親愛なる○○様。あなたが日曜日に教会に行って、その血塗られた手で自らを祝福するとき、懺悔する機会もないままあなたによって死に追いやられた、あわれなドンネリーの者どものことを思い出してやって下さい。」

という赤いインクで書かれた手紙を送りつけた。彼は終生自警団への憎しみを忘れなかったが、ホームレスの少女に施しするのを村人が目撃し、地元紙セントメリーズ・アーガスの記者に語っている。そこにはかつての暴れん坊の面影はなかった。晩年は精神を患い、ロンドン精神病院に送られた。ロバートは58歳で世を去り、両親の墓に葬られた。

テキスト ボックス: 1889年に建立された墓標。 馬車の製造法を学ぶため若いころからロンドンに出ていたパトリックは、兄弟たちの中でただ一人犯罪歴がなかった。彼は事件のことを決して思い出さず、誰にも語らず、5人の子に囲まれてソロルドで安らかに暮らし、65歳で世を去った。兄弟たちの中で彼だけが父親より長生きし、彼だけが両親の墓に入らなかった。

ジェームズ・フィーヘリーはドンネリー一家と親しかったが、それゆえ自警団に脅されてスパイにされた。彼の役割は事件の夜、ドンネリー邸を訪問して誰がいるかを報告することだった。彼は泊まっていたオコナーをジョンと誤認している(それゆえウイリアムは助かった)。1881年2月に彼の父が死亡したとき、農場が4000ドルの抵当に入っていて、フィーヘリー家は農場を手放すほかなかったが、マイケル・キャロルが農場を5005ドルで購入し、フィーヘリー家に引き続きそこに暮らすことを許し、その上資金援助するとまで申し出た。これはひとえに、フィーヘリーが重大な秘密を告白しないための口止め料だったが、実際にはお金は支払われなかったので、フィーヘリーは全てをぶちまけると言って、自分の知る限りの全てをパトリックに密告し、それからミシガンに逃亡した。パトリックが通報したため彼は殺人事件に関与したとして起訴され、アメリカで逮捕されカナダに身柄を送還された。彼は法廷でパトリックに「家族を売ったことを申し訳なく思う」と謝罪し、オコナー証言について「ジョン・パーテルが犯行に加わったとするのは誤りであり、それ以外は全部正しい」と証言した。自警団が保釈金を払ったため彼は釈放され、その後は誰のためにも一切の証言を拒否した。無罪となった彼は村を去り、ウィスコンシンで樵として働いたが、同僚からのけ者にされ、その後行方不明となった。

 クリスティアーナ・マキンチャーの兄弟ジョーは後年、自分がトーマスを殺した一人だと告白し、懺悔した。彼は泣きながら「あれから私の人生は生き地獄だ。夢の中に何度もジョハンナが現れて、私を指差して呪うんだ。もう耐えられない」。彼はその2週間後、自宅で首を吊った。

 自警団リーダーだったジェームズ・キャロルは、裁判を無罪で切り抜けた後、何かに追われるように村を去って行った。彼と同郷の医師が、1912年に彼の姿を偶然ブリティッシュコロンビア州ゴールデンで見つけている。キャロルはすっかり老けこんで、病気になっていた。その医師はキテキスト ボックス: ジェームズ・キャロル。ャロルのことを「親切だが無口で、罪の意識にさいなまれているようだった」と語っている。キャロルはその3年後に世を去り、ニューウエストミンスターに葬られた。

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 こうして時が流れ、みな人生の舞台から去って行き、事件は忘れられていった。

ある日ロンドンの警察署に小柄な老婦人が訪れ、ドンネリー一家殺害事件の再審を請求した。関係者はみな他界し、新しい証拠や事実が見つかるはずもなく、無理な話と思ったが、その警官は遠方から訪ねて来た老婦人を哀れに思い、話だけは聞いてやろうと思った。そこで警官が名を尋ねると、その老婦人は「マーガレット・トンプソン」と名のったという。 

 

 

 

 

[付] 栗の木は残った─「ドンネリーの郷」を訪ねて

 

 1993年9月、オンタリオ州ロンドンを訪ねた。そこは人口約27万人、エリー湖地区では中核となる都市で、ホテルも市バスもあるが、着いたのが金曜の夜で、インフォメーションセンターは週末は開いていないので“Donnelly Homestead”の場所を確かめることができず閉口した。何しろ日本人旅行者必携の「地球の歩き方」や「自由自在」はおろか、当地の“Let's go Ontario”にも載っていないのである。現地ルーカンへ行って土地の人に聞くしかなさそうだ。

 ルーカンのバスは行きが夜1本、帰りが朝1本あるだけという、要するにルーカンの住人が朝ロンドンに行って夜日帰りをすることが前提で、ロンドンから見たら行ったその日は帰れないのだが、電話帳で調べたら予想通り、ルーカンにはホテルもモーテルも何もなかった。観光地でも何でもない、ただの農村だから当然か。少し遠いがタクシーで行くしか方法がなかった。

 ドンネリーの屋敷は事件当日炎上し、その後誰も住ん