
[12] 金塊と女王陛下
Joseph Whiteside Boyle(1867−1923)
ジョー・ボイルはトロントに生まれた。父チャールズはサラブレッドの生産者で、1883年には持馬のローディープリングルが、カナダ4歳クラッシックレースの一つクイーンズプレートで優勝している。だが母マーサは息子を牧師にしようと考え、ジョーを競馬から遠ざけ、神学校に入学させた。
しかしそんな願いもむなしく、卒業するとジョーは厩舎の手伝いをするようになった。ところが3ヶ月もすると「海へ行く 心配無用 ジョー」という置き手紙を残して家出し、船乗りになる。そして21歳のとき子連れの女性ミルドレッドと、航海先で知り合って3日目に結婚する。
結婚後、彼は突然ボクシングクラブのマネージャーとなる。彼の仕事は、イギリス連邦ヘビー級チャンピオン、フランク・スレイビンのプロモーションとスパーリング・パートナーだった。ところがある日のタイトルマッチに、客が30人程しか入らなかったことに落胆する。ボクシングは当
時、サーカスの前座のようなものでしかなかったのである。ジョーとスレイビンは1898年、ユーコンに行って興行の場所を探すが、全て断わられてしまい、2人はボクシングを捨てて金鉱探しを始めた。家族はニューヨークに放ったらかしだった。
皿で砂をすくってふるいにかけるやり方では金持ちになれないと悟ったジョーは、政府に働きかけて11平方キロの土地の採鉱権と、独占的な水力採鉱の権利を獲得し、毎日1万1千立方メートルの砂利をさらう巨大な浚渫機を借り入れ、1904年カナダ・クロンダイク鉱業社を創立する。またたく間に巨万の財を成した彼は、製材所、ドック、発電所、電話会社、不動産会社などを次々と興し、「クロンダイクの王」と呼ばれる億万長者となった。
ほかにもスポーツ好きの彼は、1899年にアイスホッケーのユーコン・ナゲッツを結成してマネージャーとなり、スタンレーカップにも出場している。女性関係も多彩で、エルマ=ルイーズと再婚したほか、愛人も数人いたことが判明している。
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第一次大戦が始まると、彼はユーコン機関銃社を設立して、政府に無償で武器を提供する。その見返りに彼は陸軍名誉中佐に任じられ、兵器委員会のメンバーとなる。そして彼はロシアでの鉄道復旧と、連合国側から離脱したルーマニアを戦線に復帰させる任務を与えられた。彼はユーコンの会社を長男に任せ、単身ロシアへと渡る。
当時ロシアは、二月革命後の混乱で鉄道が麻痺しており、連合国側にとって大きな障害となっていた。ジョーはただちに運行を正常化させたが、1917年の十月革命で共産主義者が実権を握ると、ロシアは不穏な情勢となり、ジョーは活動の拠点をルーマニアへと移す。
そのころルーマニアは連合国側について参戦していたが、ソ連が戦線から離脱すると国土の3分の2を同盟国側に占領され、1916年に首都ブカレストも陥落し、王室と政府はヤシーに避難していた。王室と言ってもフェルディナンド国王はドイツ人、マリア王妃はイギリス人である。弱小国ルーマニアが列強諸国の後ろ盾を得て独立を維持するため、このような奇妙な政略結婚がなされたのだった。
ルーマニアはもともとドイツと同盟していたが、自由党が王妃に働きかけ、連合国側で参戦した。しかし国を存亡の瀬戸際に追いやる結果となり、そのことは国王と王妃の関係に微妙な影を落とした。そのうえ実の息子のカロルは、皇太子でありながら恋人と国外に駆け落ちするなど問題を起こし、両親に事あるごとに反発した。王妃は言葉も文化も異なる異国の地で、孤独感にさいなまれていたのである。ジョーがこの美貌の王妃と出会ったのは、そんなときのことだった。
妻たちとの生活で満たされることのなかったジョーは、優雅で政治にも深い関心を寄せる王妃に強く惹きつけられた。いっぽう国家の一大事にも何ら打つ手もない夫とは対象的に、知的でたくましく、幅広い趣味と教養を持ち、冒険の末に億万長者となり、ルーマニア救援の使者として来たジョーは、王妃にとってダルタニアンだった。王子や王女たちは、冒険談を語る彼を「ジョーおじさん」と呼んでなつき、ジョーは王妃や王子たちにとってなくてはならない存在となった。いつしかジョーは王妃と次第に親密な関係になっていった。そしてそれは――許されざる関係であった。
ジョーはさっそくカナダ政府から、ルーマニアへの2500万ドルの援助を取りつけ、さらに略奪から食糧不足が起こっていたため、連合国から船3艘分の食糧援助も引き出した。またブカレストが陥落したとき、政府は3億レイの金塊、公文書、宝冠などをロシア帝室に預けていたが、ソ連新政府がこれを返還しようとしなかったため、ジョーはイギリス空軍のジョージ・ヒル大佐とともに、これらをクレムリン宮殿から秘かに運び出し、内戦中で警備の厳重なウクライナを巧みに汽車で通過することに成功する。ルーマニアに着いたのがちょうどクリスマスの夜のこと、王妃への最高のプレゼントとなった。なおヒルは後にこのできごとを題材に、小
説「スパイよ その地へ行け」を執筆している。
また革命後の混乱の中でソ連領ベッサラビアが独立を宣言し、ルーマニアとの合併を宣言したことに乗じて、ルーマニアがソ連政府の承認なしに軍を進駐させ既成事実化を図ったのに対し、ソ連は72名のルーマニア人を捕虜としてクリミアのテオドシアに収容していたが、ジョーの工作により平和条約が締結され、ベッサラビアからの撤退と捕虜の解放を実現させた。こうして彼は国王より「ヤシー公」の称号を許され、外国人としては異例の、勲章「ルーマニアの星」の最高位グランド・クロス章を王妃から授けられ、人々から「ルーマニアの救世主」とさえ讃えられたのだった。
たが、幸福の絶頂は長くは続かなかった。長男に任せたユーコンの会社が破産してしまったのである。さらに王妃との親密な関係や、カロルにまつわる王室内のトラブル、特に王位継承権に関する騒動に王妃の腹心として深く関与したことが、ルーマニアの政治家たちを怒らせた。ジョーは1920年ついに軍務を解かれ、そして王妃からも国外退去するよう促される。このころ王妃の心は、ジョーとバルボ・シュティルベイ公の「二つの忠誠と二つの愛」の間で揺れ動いていたのである。王妃はこう記している。「私は二人の心を傷つけて
いたにもかかわらず、どちらかを傷つけることに耐えられなかった」。そして事実を知ったジョーもまた、深く傷ついた。
ルーマニアを去ったジョーもまた、王妃への手紙にこう記した。
「私と、昔からの友人とともに過ごすのは、あなたにとってできない相談でした。私はあなたの影になることはできない、それでルーマニアを退去しました。あなたは私に何の負い目もありません。あなたはいつも私に何かを与えて下さいました。だから私は、今もあなたに感謝し、今もあなたを愛しています。」
ジョーはその後ロイヤル・ダッチ・シェル社のエージェントとして、ルーマニアとソ連におけるイギリスの石油利権のために働いた。ところが1921年、ジョーの乗った列車がボルシェビキ暗殺のためブレーキを壊されており、脱線して先頭の2輌に乗っていた乗客のほとんどが死亡する惨事となった。ジョーは命に別状なかったものの半身不随となり、車椅子での生活を余儀なくされる。イギリスのハンプトン・ヒルで療養生活を始めた彼はそこでも王妃に手紙を
書き続けていたが、容態は悪化し、ついに書くこともできない体となり、かつての億万長者は貧しく、見取る家族もなく孤独の内にその激動の生涯を閉じた。
ジョーの死の知らせを聞いた王妃が書いた手紙が、今も残っている。
For me he is not dead. 私にとって、彼は今も生きている。
For me
he is in the trees, in the sky, in the sea, in the sun 木々の中に、空に、海に、太陽に、
and in the wind
that sweeps round my house. そして私の家の周りをなびく風の中に。
He is in the
freshness of the early morning and the silence of the night ― 朝のすがすがしさの中に、夜の静けさの中に、
the stars seem to
watch me with his eyes 私を見つめる星の中に、
and the clouds
seem to bring me messages そして彼のメッセージを
from that great
heart which was mine… 私の心に運んでくれる雲の中に・・・・
遺体はハンプトン・ヒルの聖ジェームズ教会に葬られ、王妃の命により十字架形の墓標が建てられた。そこにはジョーが愛したロバート・サービスの詩から、王妃が選んだ一節が刻まれている。


A man with the heart of a
Viking, バイキングの心と
and the simple faith of a child. 少年のような信仰を持った男
王妃はその後も毎年のようにイギリスを訪問し、命日には必ず墓を訪れ、ユリの花を捧げて行った。ロンドンのコラムニストが、毎年墓参する謎の黒服の貴婦人の正体を知ったが、彼はそれを公にはしなかった。王妃は後年ジョーの娘フローラに対し、墓をルーマニアに移し、いつもユリの花で飾られているようにしたいと語ったが、宮廷クーデターで王位に就いたカロルが母の資産を凍結したため果たせず、「ルーマニアの救世主」と呼ばれた男の墓は今日雑草に覆われ荒れ果てている。禁じられた恋に生きた男と女の愛の証が、共同墓地の片
隅に誰にも顧みられることなく、しかし確実に今も残っている。
* * * * * *
※追記:上の写真は1954年に撮影されたものである。筆者は2004年に聖ジェームズ教会を訪れているが、墓標はすでにジョーの故郷オンタリオ州ウッドストックに移されていた。詳しくは「カナダ人物列伝別館」ハンプトン・ヒルの項目を参照のこと。
[付] ルーマニア王室史
モルドバ・ワラキア両公国は、長年オスマン=トルコに従属していたが、パリに留学していた貴族の子弟たちが、フランスの二月革命の影響を受けて1848年革命を起こした。革命はトルコとロシアによって粉砕され、指導者達は亡命するが、ロシアとトルコが戦ったクリミア戦争の結果、列強七ヶ国の代表者会議によって1859年、統一君主の下に自治権を持つ「モルドバ=ワラキア連合公国」を形成することを決定し、1848年革命の指導者の一人、アレクサンドル=イオン・クーザ大佐を公位に選出した。クーザ公はただちに新国家の諸制度を整えていったが、急激な改革が貴族たちの反発を買い、1866年クーデターによって追放された。
両公国による国家連合は、もともと統一君主クーザの治世に限るとされていたため、政府は引き続き連合国家を維持するため、プロイセン王
子でフランス皇帝とも縁続きである、ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン家のカール=アイテル=フリードリヒを公に招聘した。彼は話を聞いたとき、ルーマニアがどこにあるのか地図で探したという。彼はカロル一世として公位に就き、1877年にはロシアとともに独立戦争を戦って宗主国トルコに勝利し、翌年のベルリン条約で正式に独立を果たした。カロル一世は1881年国王の戴冠を行い、国名をルーマニア王国と改める。これがルーマニア王室の起源である。
ルーマニアは、19世紀の終わりにドイツ・オーストリア=ハンガリー・イタリアの三国同盟に加盟した。その理由は、隣国ブルガリアがロシアと結んだことに対抗するためであったが、カロル一世がドイ
ツ人であったことの方が大きい。だが1914年に第一次大戦が勃発すると、国王と保守党は同盟国側につ
くことを主張したが、中立を唱える自由党が多数のため、当初中立を守った。同盟国側からは参戦するよう誘いをかけられたが、イギリス生まれのマリア皇太子妃は最後はイギリスが勝つと確信し、「ルーマニアがイギリスと戦うなら、私は苦痛で死ぬだろう」と語った。
マリア皇太子妃(マリア=アレクサンドラ=ビクトリア、通称ミッシー)は、イギリスのビクトリア女王とロシアのアレクサンドル二世の両方の孫にあたる。少女時代はいとこのジョージ(後の国王ジョージ五世)に可愛がられ、ビクトリア女王もこの縁談に乗り気だったが、ロシア皇室から嫁いだ母メアリはイギリスとその王室を嫌悪しており、この縁談をつぶすため娘をルーマニア皇太子フェルディナンドと引き合わせた。
冷静で計算高いカロル一世と、詩人で夢想家のエリザベート皇后の結婚は、トラブルの連続だった。一人娘を幼くして亡くしたことが、さらに追い討ちをかけた。カロル一世が後継者に甥のフェルディナンドを指名すると、エリザベートは自分の息のかかった侍女エレーナ・バカレスクと結婚させ、
影響力を保持しようと謀った。だがルーマニア憲法は王族のルーマニア国民との結婚を禁じており、二人の恋は許されなかった。彼が「欧州で最も美しい王女」と言われたマリアと出会ったのは、そんなときのことである。彼はマリアをみそめ求婚するが、17歳の彼女にはそれを断ることはできなかった。マリアは後年「この結婚で私の運命は封印された。9か月後、新婚旅行のときこの結婚が失敗だったと気づいた」と語っている。
ルーマニアは文化も言語も異なり、貧しく政情も不安定で、マリアは心細く感じていた。姑とも不仲で、エリザベートは一時追放されることになる。だが夫フェルディナンドが公共の場でぎ
こちない振る舞いをするのに対し、マリアは努めて優雅にふるまい、またルーマニアの文化にも深い関心を寄せた。彼女が政治に強い関心を抱くようになったのは、1907年の農民大蜂起が武力鎮圧され、1万人以上の死者を出したことがきっかけだといわれている。
1914年にカロル一世が死去すると、連合国側からハンガリー領トランシルバニア(ルーマニア人が60%)の割譲を提示されていたルーマニアは、ロシアのブルシロフ攻勢の成功を契機に中立を破り、1916年8月オーストリア=ハンガリーに宣戦布告した。ドイツのウイルヘルム二世はこれに激怒し、フェルディナンド国王をホーエンツォレルン家の家系図から削除したという。
ルーマニア軍は参戦直後、トランシルバニアを占領して現地ルーマニア人の熱烈な歓迎を受けたが、ブルガリア、トルコそしてドイツから宣戦布告され、三方から集中攻撃に晒されることとなり、それでいて援軍はロシアしか期待できない状態だった。やがて同盟国側は反撃に転じ、ルーマニアの国土の3分の2を占領し、1916年11月には首都ブカレストが陥落したため、王室と
政府はヤシーに避難した。マリア王妃は宮殿内に赤十字病院を設立して、自ら看護婦として負傷兵の手当てに奔走した。
1917年7月、ロシアで共産主義者による革命が起こり、ロシアが戦線から離脱すると、ルーマニアは戦争続行が不可能となり、1918年5月、ブカレスト平和条約の受諾を余儀なくされた。これは同盟国軍の駐留を認め、政府は統制下に置かれ、領土を割譲し、石油は30年間ドイツ系企業
の独占とする(ルーマニアは当時世界第4位の産油国だった)屈辱的なものだった。マリア王妃はハンガリーに割譲される村を訪問して、同盟国に公然と反抗した。だが同年夏にアメリカが参戦すると、戦況は連合国側有利に展開したため、ルーマニアは11月10日再び宣戦布告したが、その翌日戦争は終結した。パリ講和会議では、際どく戦勝国となったルーマニアに交渉が有利に運ぶよう、マリア王妃がパリとロンドンを訪問し、王室やマスコミと華々しく接触を図って「ベルサイユの華」と称えられたが、その結果ルーマニアはわずか1日の勝利でソ連領ベッサラビア、ブルガリア領ドブロジャ、ハンガリー領ブ
コビナ及びトランシルバニアを獲得し、国土は戦前の2倍を越え、ソ連を除きフランス、スペイン、ドイツ、ポーランドに次ぐヨーロッパで5番目の大国となった(大ルーマニア)。
マリアはその生涯でカロル二世(ルーマニア王)、エリザベート=シャルロッテ(ギリシア王妃)、マリア(ユーゴスラビア王妃)、ニコラエ(ルーマニア摂政)、イレアナ、ミルチャの6人の子を産んだ。上の5人は両親と同じ青い瞳を持っていたが、末子のミルチャだけが黒い瞳を持っていたため、黒い瞳のバルボ・シュティルベイ公の子であると噂された。また後年、次女マリアはロシアのボリス=ウラジミロビッチ大公(アレクサンドル二世の孫)の子であると告白した。
カロルは両親から十分な愛情を注がれず、それでいて欲しいものは何でも与えられた。家庭教師のモーレンは精神的に病んだ人物で、カロルが彼から学んだことと言えば、自己嫌悪と同性愛だった。両親の不仲、そして母マリアとシュティルベイ公の関係は、若い日の彼を悩ませた。
カロルも父と同じように、ルーマニア女性ヨアンナ=マリア・ランブリノと許されざる恋に落ちた。そして第一次大戦中に軍を脱走して駆け落ちし、極秘に結婚して息子ミルチャ=グレゴール=カロルを生む。だが憲法違反のこの行為が容認されるはずもなく、カロルは連れ戻されて修道院に送られ、結婚を無効として皇太子にとどまるか、それとも私人として結婚し王室から離脱するかを迫られた。マリアの命を受けたジョー・ボイルが、カロルを訪ね王位継承権を放棄しな
いよう説得し、また議員たちにも王位継承権放棄のための手続きをしないよう働きかけたので、カロルは結婚を断念した。その後母の命令でギリシア王女エレーナと結婚するが、結婚後7か月で生んだ息子ミハイは体重が4000グラムもあり、とうてい自分の子とは思えず、彼は離婚歴がありユダヤ系と噂されるエレーナ・ルペスク夫人を愛人とした。カロルは両親から夫人と手を切るよう求められたが聞き入れず、ルペスク夫人とパリに駆け落ちしてしまう。するとマリア王妃とシュティルベイ公は、自由党政府と謀ってカロルの王位継承権を剥奪し、その子ミハイを皇太子とした。1927年フェルディナンド国王が死去すると、孫のミハイが5歳で王位に就き、摂政府が幼い王を後見することとした。摂政府はルーマニア大主教ミロン・クリステア、ミハイの叔父ニコラエ公、大審院長官ゲオルゲ・ブスドガンの3名で、みな自由党の支持者であった。

カロルは1928年、王位に就くためのクーデターをイギリスで計画したが、当局に事前に阻止された。マリアはかつての想い人、国王ジョージ五世に謝罪したが、カロルは母が自分の足を引っ張ったと非難した。そのころルーマニアでは、自由党総裁が死去したのに乗じ、農民党が数千人の農民を動員して「ブカレストへの行進」を敢行し政権を奪取していたが、腐敗した政治で国民の支持を失っていた。そこで農民党のマニウ政権は自由党に対抗するため、摂政府に敵意を抱くカロルに恩を売るのが得策と考え、将校らと画策して1930年、カロルを帰国させた。それには、王位を望まず摂政府にて
ミハイを後見すること、ルペスク夫人と絶縁し妻エレーナ妃と和解すること、という条件があった。だがその後カロルは王位に就くこ
とを宣言し、こうして歴史上前例のない子から父への譲位が実現した。マニウ首相はこれに抗議して辞任する。そして即位後はルペスク夫人を宮殿に呼び寄せ、エレーナ王妃を離縁して邸宅を警察に包囲させ、政治家との接触と公共の場に姿を現すことを禁じて軟禁し、幼い息子ミハイとも夜だけしかいっしょに過ごさせなかった。カロルは公的に、自分は冷酷な妻の犠牲者であったと宣言したばかりか、国のためにあらゆることを犠牲にし、好きな女性とも別れさせられたと公言さえした。妹のイレアナ王女が兄嫁に味方したため、彼は妹の好きなガールスカウトとクリスチャン婦人会への資金を差止めて報復した。さらにイレアナを外国の王子と結婚させて国外に追放しようと謀り、ハプスブルク家の元王子と結婚したのを機にルーマニアから追放した。
カロルは、かつて自分を追放した摂政府を憎んでいた。しかも弟のニコラエは国民に人気があり、彼はそれを妬んでいた。ニコラエは離婚暦のあるルーマニア女性ヨアナ・ドレッティと交際していたので、カロルは一計を案じ、弟に事実を公表すべきだと説いた。もしそれが国民に受け容れられれば、彼もルペスク夫人との関係を公然のものにできるし、そうでない場合は弟を国外追放する口実となるからである。結局ニコラエは国民に全てを告白したが、カロルはニコラエから陸軍司令官の地位と財産を没収し、ルーマニアから追放した。
カロルの母への歪んだ情念は、シュティルベイ公への敵意として表れた。摂政府と深い関わりを持った彼の暗殺を計画したため、シュティルベイはフランスに亡命する。するとカロルの怨念はついに母マリア太后に向けられた。母の使用人をわずか一人にまで減らし、しかもその一人もカロルのスパ
イであった。彼はフェルディナンドが母に残した邸宅の家賃を取りたて、母の60歳の誕生パーティーを中止させ、さらに母が政治家と接触することも禁じたので、彼女は自宅で自伝や童話など執筆活動に勤しんだ。マリアは62歳で病死したが、それまで彼女はいたって健康だったため、カロルに毒殺されたと噂された。
カロルは自分の周りにいる政治家や王族を心の底では冷笑し、憲法を憎み、ムッソリーニに薫陶していた。このころルーマニアでもファシズム政党鉄衛団が、反ユダヤ活動を取り締まった警察署長を射殺したコルネリウ・コドレアヌによって結成され、反共主義、反ユダヤ主義、キリスト教神秘主義、反議会主義、指導者崇拝、農民主義、都市文化の否定、シャツの着用、ローマ式敬礼、死の美化などを標榜して没落貴族や農民、失業者などに支持され、ナチスも秘かに支援していた。鉄衛団は1933年ドゥカ首相によって解散を命じられたが、これに対し首相を暗殺して報復した。非合法化後も鉄衛団は勢力を伸ばし、1937年には第3党に躍進する。カロルはこのような状況の中で、市民運動を弾圧させるためファシズム団体を陰に日に支援し、その一方では党首でない者を首相に任命して政党の分断を図り、内閣を短期間で次々に交代させ、政党の弱体化を狙った。こうして念願の憲法廃止を実現し、1938年の新憲法によって全ての政党を禁止してついに国王独裁を確立する。すると彼は勢力を持ちすぎた鉄衛団が邪魔になり、同年獄中にいたコドレアヌとその仲間30名を、偽って脱獄させ射殺した。
ルーマニアは、第一次大戦の結果領土を縮小したブルガリア・ハンガリー・ソ連を警戒し、ベルサイユ体制を維持するため、大戦後に領土を拡張したチェコスロバキア・ポーランド・ユーゴスラビアと同盟(小協商)し、フランスを後盾にしていたが、英仏はナチスとの対立を恐れ、ミュンヘン協定によってチェコのドイツへの併合を許した。第二次大戦が始まり、ポーランドが侵略されると、カリネスク首相はポーランド亡命政府をルーマニアに受け入れたが、ナチスは憤激し、鉄衛団に首相を射殺させた。これに対しカロルも鉄衛団員を広場で処刑して報復したが、1939年の独ソ協定でベッサラビアとブコビナ北部が勝手にソ連領とされ、同年フランスが降伏すると、孤立無援となったカロルは、あわてて単一翼賛政党「国家再生戦線」を結成し、鉄衛団の再建を認めて団員を多数入閣させ、ナチスに媚びを売ったが、ベルサイユ体制の最大の受益者であるルーマニアが、
その破壊者に身を委ねることは自殺行為に等しかった。ナチスはカロルよりもハンガリーのファシズム政権に肩入れしたため、ルーマニアはハンガリーにトランシルバニア北部の割譲を強いられた。すると長年の宿敵ブルガリアも弱みにつけこみ、南ドブロジャを返還させた。こうして第一次大戦で一人勝ちした大ルーマニアは、獲得した領土のほとんどを喪失したが、このような苦境にあっても、有能な政治家はみな追放されており、カロルの周囲にはルペスク夫人によって取り立てられた無能なイエスマンとテロリストばかりになっていた。
ナチスはなおも、ルーマニア在住ドイツ人によるナチス党と鉄衛団をあやつってカロルに揺さぶりをかけ、1940年ドイツ軍がルーマニアに進駐する中、ヒトラーの手先であるイオン・アントネスク将軍が首相に就任し、アントネスクはカロルにミハイへの譲位を強要した。カロルは財宝を抱えてルペスク夫人とともに亡命するが、コドレアヌの血の復讐に燃える鉄衛団が道中で待ち伏せし、列車に銃弾を浴びせた。カロルが命からがら国外に脱出したとき、列車は蜂の巣になっていたという。カロル
はその後も、王位に復位するためソ連に交渉を持ちかけるが無視され、1949年ルペスク夫人と結婚し、1953年ポルトガルで生涯を閉じた。ルペスク夫人は晩年、自身を「ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン家のエレーナ皇太子妃」と称した。
アントネスクは「国家指導者」に就任し、鉄衛団員を要職に就け、ファシスト独裁政権を樹立した。鉄衛団はゲシュタポとともに共産主義者、ユダヤ人、学者などを弾圧し、敵対する政治家を虐殺した。だが彼らが、著名な歴史家で元首相のニコラエ・ヨルガを暗殺したとき、国民は憤り、アントネスクもついに鉄衛団の取り締まりを決意する。1941年1月21日、鉄衛団はクーデターを起こしてブカレストを制圧し350人以上の市民を虐殺したが、軍隊によって鎮圧された。こうして鉄衛団はルーマニアから一掃された。
アントネスクは日独伊三国軍事同盟に加盟していたが、1941年6月ソ連に宣戦布告し、ベッサラビアとブコビナを奪還して、そこに非ルーマニア人の収容所を造り、オデッサをアントネスク市と改名した。
イギリスは撤退を要求し、国王や旧政党の指導者たちも警告したが、アントネスクは耳を貸さず、パールハーバー攻撃の当日イギリスはルーマニアに宣戦布告、ルーマニアもイギリスとアメリカに宣戦布告し、ルーマニアは戦争の泥沼へと入りこむこととなった。
そのころ共産党は耕民戦線・社会民主党などの革新政党とともに「反ヒトラー愛国戦線」を結成していたが、1944年ソ連軍がルーマニア領内に侵入し、英米軍も空襲を始めると、自由党と農民党も愛国戦線とともに「国民民主ブロック」を結成し、王室や将校たちと連携してアントネスク政権打倒に動いた。1944年8月23日、アントネスクがソ連との休戦の勅許を得るため宮中に参内すると、ミハイ国王は解任を言い渡し、近衛将校に逮捕させた(後に死刑となる)。それから国王はラジオで、独裁制の終結と国民民主ブロックによる挙国一致内閣の組織、そして連合国側との休戦を告げる声明を発表した。そしてその日のうちに軍はナチスに蜂起し、26日には首都を解放、30日にはソ連軍が首都に進撃した。ソ連はイギリスとの協定によって、ルーマニアはソ連が90%、その他の連合国が10%の権限を持つと定めていたため、ベッサラビアとブコビナ北部をソ連に割譲させた。ハンガリーはトランシルバニアを返還したが、南ドブロジャはブルガリア領となった。
終戦後共産党は活発に活動し、農民に土地の分配を公約したが、政府がこれを黙殺したため、1945
年農民らのデモが暴動に発展し、ソ連司令部は国王に首相を更迭し、耕民戦線のペトル・グローザを後任に据えるよう強要した。グローザ内閣は農地改革を断行したため、地主階級は消滅し、旧二大政党である自由党と農民党は壊滅的打撃を受けた。1946年の戦後初の選挙では、革新政党が414議席中347議席(うち共産党149)を占め大勝利、農民党は23議席、自由党は3議席に転落する。共産党は農民党の指導者たちを逮捕し、自由党首脳は次々と亡命し、共産党の支配体制が確立された。
そのころ連合国はルーマニアと講和する必要があったが、アメリカとイギリスはグローザ政権をソ連司令部の傀儡だとして承認しなかった。そこでミハイは、政令の署名を拒否してグローザ内閣を辞職させようと謀った(国王ストライキ)が、連合国間で妥協が成立したため頓挫した。1947年ソ連軍が王宮を包囲する中、グローザと共産党書記長ゲオルゲ・ゲオルギュ=デジがミハイに退位を要求すると、ミハイは亡命し、ルーマニア人民共和国が成立した。こうして〔非ルーマニア人による〕ルーマニア王室は、67年の歴史に幕を閉じた。
* * * * * *
※追記:1.1989年チャウシェスク大統領が処刑され、ルーマニアに革命が起こると、1997年ルーマニア政府は亡命していたミハイに市民権を回復させ、ミハイはおよそ50年ぶりに帰国した。2003年には、亡命先のポルトガルに埋葬されたカロル二世の遺骨がルーマニアに移されることになったが、ミハイは「母の思い出を傷つけたくない」として埋葬式をボイコットし、母を捨てた父へのわだかまりをあらわにした。こうしてカロルは歴代国王が中で眠る大聖堂の、外に葬られた。
2.カロル二世の最初の結婚(法的には無効)で生まれたミルチャが1955年、自分は嫡出子であり相続権があるとポルトガルの裁判所に訴え、勝訴した。その息子パウル・ランブリノも、ルーマニアの裁判所に王家の一員として認めよとの訴えを起こし、一審・二審で勝訴したが、ミハイ前国王は上告している。ミハイには娘はいるが息子はなく、ルーマニア王族で存命の男子が彼一人であることが問題を複雑にしている。またパウルは、第二次大戦中のルーマニア政府によるユダヤ人虐殺についても、ミハイに責任があるとして公式に非難した。
3.反ユダヤだった元夫カロル二世とは対照的に、エレーナ元皇太子妃は第二次大戦中、ルーマニア在住ユダヤ人の国外逃亡を援助した。戦後イスラエルからヤド・バシェム賞を受賞し、「諸国民の中の正義の人」に列せられた。
[13] 軍人,ボクサー,発明家,ビジネスマン,そしてスパイ・・・
William Samuel Stephenson(1896−1989)
マニトバ州ポイントダグラスに生まれる。ミドルネームのサミュエルは、電信機と電信記号を開発したサミュエル・モールスにあやかってつけられた。数学が得意だったスティブンソンは、子供のころ飛行機と機械いじりが大好きで、蒸気エンジンや電信機を自力で作り、独自に改良したモールス信号で船と交信さえしたという。
第一次大戦が勃発すると、祖国愛に燃える彼は高校を出てすぐに工兵隊に入隊し、フランスの最前線で活躍して18歳にして大尉に昇進するが、毒ガスを吸って肺を破壊され、終身傷病者の宣告を受ける。だが強靭な体力によって奇跡的に回復し、今度は飛行機に乗りたい一心で病歴を隠して航空隊に入隊し、わずか5時間の訓練ののち空の戦場に飛び立つ。その間1918年には、高校時代から続けていたボクシングでアマチュアライト級世界チャンピオンの座に就き、「キャプテン・マシンガン」の異名をとった。
26の敵機を撃墜する大戦果を挙げたが彼だったが、1918年7月に撃墜されてしまう。幸い足を負傷した
だけで済み、ドイツのホルツミンデン収容所に送られるが、10月に脱走し、終戦を迎える。
終戦後オックスフォード大学でラジオの研究を始め、スローン・ベーカー教授の協力を得て、光を電流に変える実験に成功し、無線による写真電送(彼らはこれをテレビジョンと呼んだ)を発明。これにより世界中のどこ
ででも撮られた写真は、その日のうちに新聞での掲載が可能となり、1922年12月27日に最初の電送写真(2人のスキーヤーの写真)がイギリスのデイリーメイル紙に掲載された。なおこの装置では20秒に1回電送可能で、速度を上げることで動画(テレビジョン)実現への道を開いたという意味においても画期的であった。
この発明で特許を取った彼は、その利益を元に実業界に入り、世界最大のスタジアムの建築を手がけたアールズコート社、イギリスの車体の90%を製造するプレス鉄鋼社、イギリスのフィルムの過半数を製造するサウンドシティフィルム社、ゼネラルラジオ社、アルファセメント社、プラスチック製造のカタリーナ社などのオーナーとなり、政財界の要人とも親交を深めていった。
彼はスウェーデンに製鉄所を所有し、鉄鉱床も握っていたが、ヒトラーも軍備拡大のためそれを狙っており、スティブンソンは次第にイギリス情報部MI