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第2章 医学の先駆者たち

 

[5]「脳地図」 の成立

   Wilder Graves Penfield(1891−1976)

 

 ワイルダー・ペンフィールドはワシントン州スポケーンで、医師の子として生まれた。そこは当時まだ開拓中で自然が残っており、少年時代はフットボールやセイリングなど野外スポーツに親しんだという。また教会学校教師だった母から学んだ聖書は、彼に大きな影響を与えた。

 ペンフィールドは1909年プリンストン大学に入学する。だがそこには彼の好きなフットボール部がなかったため、自らフットボール部を結成し、名手として鳴らす。彼は哲学を専攻し、Best All-round Man”に選出されローズ奨学金を受けるが、学んでいる内容が自分の信仰と相容れないと感じ、卒業すると医師への道を志し1914年オックスフォード大学、次いで1916年ジョンズ・ホプキンズ医学校に進み医学を学ぶ。そして1918年に卒業して医師となり、コロンビア大学付属病院、長老派病院、ニューヨーク神経外科学院に勤める。1928年からカナダのモントリオールに住み、ロイヤル・ビクトリア病院に勤め、1933年マギル大学教授となり、翌年モントリオール神経外科学院を創立する。同年カナダ市民となる。

 

 従来癲癇(てんかん)は悪霊によって引き起こされると考えられていたが、医学の進歩によって、損傷した脳が放電し患者を人事不省に陥らせる現象であることが解明された。そこで彼は、損傷した脳皮質を除去することで癲癇を抑制する手法を考案し、自分の姉を含む数人の手術を手がけた後、1927年に論文で、@損傷した皮質は全て除去すること、A皮質を除去しても、除去された部分の皮質の役割は他の部分が補う、B除去した部分の空間は放置しておけば自然に液体で埋まるので、異物を埋めないこと、を述べた。また学会で、自分が手術した患者の事例をビデオでとりあげたが、その患者は相当な量の皮質を除去され、手術後当初は体の動きがぎこちなく、麻痺しているように見えたにもかかわらず、リハビリを通して次第に機能を回復し、職場に復帰したことを発表し、医学界に一大センセーションを巻き起こした。

 彼は30年間に750人以上の手術を手がけたが、頭皮に局部麻酔をして開頭手術をする際、除去すべき皮質を見極めるため、微電流を帯びた電極を脳に当てると、特定の器官が運動するのを見た。患者Aは、脳に電極を当てると「手が動いていないのに、動いているように感じる」と語った。患者Bは手術中に突然右手を動かしたため、ペンフィールドが「なぜ右手を動かすのですか」ときくと、Bは「手など動かしていません」と答えた。なおBの患部は言語野の付近にあり、手術は言語障害を惹き起こす危険を伴ったが、ゴルフ狂のBは呑気に「手術後どれくらいでゴルフができるようになりますか。先生、パットがうまくなるような手術はできませんか」などと言い、ペンフィールドは「今パットをつかさどる部分が見えますが、それはほかのプレーヤーにとって不公平だと思いますよ」と答えたという。

 側頭葉には言語野があり、この部分に手をつけると言語障害を惹き起こすことが知られていて、それまで医師たちはこの部分を禁断の地と捉え、手をつけようとはしなかった。だがペンフィールドはこのタブーを果敢に打ち破り、この部分の手術に挑んだ。彼は言語野に電気刺激を与えると、人の言語の働きを操作できることを知った。側頭葉のある部分に電極を当てると、一時的に失語症になるのである。ペンフィールドが電極を当てながら「靴を履いている部分を何と言いますか」と質問すると、患者Cは「えーっと、わかっているんですけど・・・・・」と言いながら、どうしても答えられなかった。電極を離すと「足」と答えたが、再び電極を当てるとまた思い出せなくなったという。

 このような皮質と各器官との関係は、それまで動物実験によってある程度知られてはいたが、彼はセオドア・ラスムッセンとともに著書の中で有名な「脳地図」を発表した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

左:左半球の側面。 右:中心溝に沿って切った正面の断面。 

手や口は巧妙な動きが要求されるため、発達して広い面積を占めている。

 

 

 

 

 

 だが彼の最も偉大な発見は、右の側頭葉(解釈領)に電気刺激を与えると、過去の体験が甦ってくるということだった。患者Dは手術中に「今赤ちゃんを抱いているように感じる」と語ったが、もちろんDは自分が今手術を受けていること、その赤児がすでに成長している自分の子で、自分が「幻覚」に陥っていることを認識していた。患者Eは、脳に電極を当てたとき、以前にコンサートで聞いたオーケストラの演奏が聞こえてきたので、誰かが手術室でレコードをかけていると思った。だが不思議なことに、そのときコンサートでの興奮や臨場感さえ、生々しく感じていたのだった。ところが電極を離すと音楽は止み、臨場感も消失したという。患者Fは、自分がモントリオールで手術を受けているのを知りながら、南アフリカにいるはずのいとこの姿が見え、自分と談笑していたと語った。患者Gは、脳に電極を当てると突然「どうして椅子に座っている人が見えるの!」と叫んだ。電極を離すとその人の姿は消滅し、もう一度別の部分に電極を当てると、今度は二人の男が口論しているのが見えたという。また患者Hは左官屋だが、脳に電極を当てると、自分が煉瓦を積んでいる様子をありありと感じた。それは以前にやった覚えのある作業なので、次に自分がどうするのか、予見することができたという。

 これらの事実に共通しているのは、これらの体験が記憶の「回想」と呼ぶにはあまりにも鮮明であり、むしろ過去の「追体験」とも言うべきものであるということである。記憶の回想は、長いストーリーを短縮してあらすじだけを一瞬のうちに追うことができるが、過去の「追体験」は、オーケストラの演奏も煉瓦を積む作業も全て実際と同じスピードで行われる。演奏に合わせてハミングさせると、テンポは常に一定なのである。また必ず古い過去から新しい過去に向かって再現され、時間を逆行することはないのである。

 このような記憶は、当人にとってはそれほどの重大事ではなかった。また記憶の「追体験」以外にもペンフィールドの電気刺激によって、体験の実在感がなくなる「離人感」、初めて見たものを以前見たように感じる「仮性既視」、何度も見たはずのものが初めて見たように感じる「仮性未視」など、記憶に関する様々な現象が見られた。これらの現象は、癲癇の前兆(アウラ)として知られていた症状と同じであり、これにより複雑多彩な発作が実は側頭葉癲癇にほかならないことが確認されたのである。このような体験から彼は、大脳皮質のある部分に全生涯の記録が記憶として保存されていると結論づけた。しかしそれらの全てを任意に再生することはできないし、たとえできても人は非常な混乱に陥ることになるだろう。

 

 ペンフィールドは脳外科医として長年の経験を積み重ねていくうち、人の「心」や「意識」とはどこにあるものなのかという問題につき当たった。彼は著書「脳と心の正体」の序文で、自分もほかの科学者たちと同様に、「心」とは脳の働きに過ぎないということを証明しようとしたが、「心」は脳そのものではないという結論に辿りついたと述べている。

 1962年、ソ連の物理学者レフ・ランダウ(同年ノーベル賞受賞)が交通事故で頭部を負傷した。彼は全身麻痺状態に陥り、ただ目だけが開いていた。ところが病室でペンフィールドがランダウの妻に「脳の手術をするべきだ」と話すと、突如ランダウの目が妻の方を向いたのである。そして妻が話を終えると、今度は何か言いたげな目でペンフィールドの方を向いたという。このときランダウは中脳に出血していたので、出血部よりも下にある運動神経の核に向かう信号は全て遮断されていたが、出血部よりも上にある言語領、視覚領、聴覚領は健在で、出血部よりも上にある、上部脳幹の動眼神経核だけが信号を目の筋肉に伝えることができたと思われる。ペンフィールドは、ランダウが2人の会話を聞いて理解していたととらえ、脳が損傷しても「意識」は存在し続けると考えた。

 また、癲癇の小発作が起こると、上部脳幹の焦点性放電により「意識」を失うが、脳の他の部分は働き続けるため、無意識のままさまよい歩いたりし、しかもその間の記憶が残らない(自動症)。ペンフィールドはこのような現象が起こるのは、放電によって上部脳幹の機能が停止し、脳と「意識」の連絡が断たれるためだと考えた。

 ある患者は、電気刺激によって右手が勝手に動くのを左手で止めようとした。また別のある患者は、見えている物体がどんどん大きくなり、「近づいて来る」と言いながら、それをよけようとはしなかった。もしも脳が「意識」そのものならば、電気刺激によって意識は混乱するはずである。しかし記憶の「再現」を経験したどの患者も、それが「幻覚」であり、自分が手術を受けていることを確かに認識しており、手足が勝手に動いても、患者はそれがペンフィールドに操作されたものであることを認識し、意識の混乱は見られない。しかも電気刺激によって何かを決心させたり、信じ難いことを信じさせたりすることはできず、ペンフィールドは、脳を刺激しても「心」は動かされないと結論づけた。

 

 ペンフィールドは1954年に教授職、1960年には神経外科学院を退任するが、それは彼にとって新しい人生のスタートでしかなかった。1954年の処女作「ほかに神なし」は、偶像礼拝のはびこるウルの街で、月の神の祭司ナンナーと、唯一の真の神である主を求めたアブラハムの生き様を対比した物語で、聖書への信仰厚い彼の母が長年あたためてきた構想に基づき、母の死後自らのメソポタミア旅行体験と合わせて綴った作品である。1960年の「ともしび」は、これもギリシア旅行体験と合わせて書いた、医学の祖ヒポクラテスの物語である。1963年には随筆集「第二の人生」を出版、1976年には自伝「人は独りでは事を成しえない」を書き終えているが、それは彼の死の3週間前のことだった。

 

 

 

 

[6] 毛沢東の次に有名な人

   Henry Norman Bethune(諾爾曼 白求恩)(1890−1939)

 

 1960年、モントリオールで中国人による京劇が催された。カナダは当時中華人民共和国と国交がなく、このように中国からの賓客を迎えることは珍しかった。

 演技が終わると、劇団員たちは整列して挨拶した。

「中国の恩人ベチューン博士に感謝致します」。

 だが観客の中で誰一人、ベチューンの名を知る者はなかった。──

 

 ノーマン・ベチューンはオンタリオ州グレーブンハーストで生まれた。祖父ノーマンは医師で、トリニティー・カレッジ医学部で教えていたが、国教会信徒以外の入学を認めない規則に反発して辞職した。父マルコム=ニコルソンは若いころ放浪生活を送っていたが、宣教師で後に妻となるエリザベス=アンと出会って牧師となった。彼は金持ちを神の国にふさわしくないという理由で教会から閉め出し、説教中居眠りした長老を非難したため解任された。このような家風こそが、ベチューンの奉仕と反骨と強烈な自己主張の精神を培ったのだろう。

 ベチューンは1909年トロント大学に入り医学を学ぶが、在学中に第一次大戦が勃発するテキスト ボックス: ベチューン生家(オンタリオ州グレーブンハースト)。と衛生兵に志願し、フランスの最前線に赴く。だがそこで彼が見たものは、手当てをしても次から次へと運ばれてくるおびただしい数の負傷兵だった。

  軍医が手当てをしても、戦争を止めなければ、負傷者は減りはしない・・・・・。

 心に疲れを感じるようになった矢先、彼は榴散弾を浴び、イギリスの病院に収容され、そこで終戦を迎えた。

 彼は1916年に大学を卒業してから、インターンを経て、1924年にデトロイトに移り住み、そこでハーパー病院に勤めながら下町に診療所を開業した。デトロイトは自動車産業のメッカであり、富を求めて多くの人々が流入してきたが、成功者と敗残者との間で貧富の差は拡大していった。街中は自動車が走り廻って空気が汚れたため、金持ちは郊外に住み、貧乏人は下町にたむろするようになった。彼はハーパー病院で金持ちが治るのを見、診療所で貧乏人が不衛生な環境の中で結核を患い、入院費もないまま働き続け、他者を感染させ、そして死んでいくのを見たのである。いくら昼夜を問わず病院と診療所で働いても、結核患者は増える一方だった。彼は次第に疲れを感じるようになった。そして彼の脳裏に戦場の光景が浮かんだ。

  医者が努力しても、貧困を解決しなければ、結核は減りはしない・・・・・医療を本当に必要としているのは、貧乏人である。  

 彼は医療費を払えない患者にはそれを免除した。そして気がつくと、彼の経済状態は、診療所の患者と同水準になっていた。貧しさの中で彼は診療所を手放すはめになり、妻は去って行き、そして  彼自身が結核を患っていた。

 

 彼はサナトリウムに入院することとなった。当時結核は治療法がなく、空気のきれいな田舎のサナトリウムで栄養のある食事を摂り、一日中ベッドに伏すことで進行を抑える「安静療法」しか方法がなかった。しかしそれができるのは金のある人だけで、貧乏人は働かないわけにはいかず、ここでも彼は金持ちが治り、貧乏人が死んでいくのを目の当たりにしたのである。

ベチューンが考案した気胸療法専用器具。右下はベチューン式肋骨用大鋏。

 
 だが何事にも積極的で規制を嫌う彼には、一日中何もせず寝ている生活など耐えられなかった。そんな時彼は気胸療法の存在を知ったのだった。それは主に片肺を侵された患者に対し、中空の針を胸腔に刺して空気を注入し、感染肺を圧潰して活動を停止させることで結核の進行を抑えるという方法である。まだ考案されたばかりで、肺を破裂させたら死に至るなど危険も大きかったが、どうせ死ぬのだと思い込んでいた彼は迷わず気胸療法を選んだ。そして病状は奇跡的に良くなったのである。

 気胸療法なら、貧乏人でも癒される  モントリオールの名門、ロイヤル・ビクトリア病院で医師に復帰した彼は、気胸療法の普及に生涯を捧げることを決心した。そして「ベチューン式」の名のついた肋骨用大鋏、気胸装置など気胸療法専用器具を次々と考案した。

 だが他の医師たちは、危険な手術を敢行して患者を死なせたら病院の名に傷がつくが、放っておけば「結核で死んだ」と言えるし、安静療法は長期間高額な入院費を得られるが、気胸療法は治っても死んでも入院費を取れなくなるので、その導入には賛同できなかった。彼はそんな医師たちを、病人が栄養を摂って安静にするなど当たり前で、何もせず自然な治癒を待つなど医療とは言えないと痛烈に批判した。また彼は同僚の医師たちがやりたがらない、リスクの高い手術を買って出たため、彼の手術における死亡率は同僚たちより高かったのである。彼の粗野な、そして冒険的姿勢は、名門病院に似つかわしくないものだった。気がつくと彼はすっかり孤立し、病院を去ることを余儀なくされた。

 1935年、学会に出席するためソ連を訪れた彼は、我が目を疑った。各国が世界恐慌にあえいでいる中、ソ連では経済計画が成功しており、サナトリウムでの無料医療が実現していたのである。彼は帰国するとただちに政府に対し公営医療制度と強制保険制度を要求し、病院に対しては、軽症の患者たちだけが他者を感染させる心配なく働ける「サナトリウム作業所」の設置さえ提案した。だが特権を失うことを恐れた医師たちは公営医療に敵意を示し、民衆も社会主義的政策に違和感を覚えた。「サナトリウム作業所」は問題にもならなかった。こうして社会から拒絶される中で、彼は次第に共産主義に傾倒していったのだった。

 スペイン内乱が起こったのはそんなときのことだった。軍事独裁政権を打倒して結成された人民戦線政府(共和主義と社会主義連立)に対し、フランコ将軍に率いられた軍部が、ドイツとイタリアの支援を受けて1936年にクーデターを起こしたのである。ベチューンは、社会主義を守る戦いに軍医として参加した。そして負傷者を病院で待っているのでは遅すぎ、最前線に出て輸血するべきだと考え、ワゴンテキスト ボックス: 移動血液銀行とベチューン。車を手に入れ世界初の「移動血液銀行」を作った。

 しかし政府軍は次第に圧倒されていった。彼は1年後帰国し、カナダ各地を巡回して援助を訴えた。

「戦争に巻き込まれたくないとか、内政不干渉とか言ってスペインを援助しないのは、結局ファシストに味方するのと同じだ。救急車の輸送を許可しなかったキング首相が、ヒトラーと握手している写真を私は見た」。

 だが彼が共産主義者であることが知れると、民衆も政府も冷淡な態度をとった。医師会の嫌われ者に協力する医師もいなかった。彼は祖国に失望した。かつて気胸療法が、保険制度が、そして今スペインへの援助が拒絶されたのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


延安で毛沢東と会見するベチーン。ベチューンがレーニン的風貌に描かれている。

 

 

 

 

 

 ベチューンが帰国している間に、政府軍の敗北は決定的となった。すると彼の目は中国へと向けられた。華北に侵入した日本軍に対し、八路軍(共産党)がゲリラ戦を展開していたのである。彼は1938年中国に渡り、延安にいた毛沢東と会見し、八路軍の軍医となる。そして訪れる村々に模範病院を建て、中国人医師に医療を教え、中国人がそれまで知らなかった輸血を施した。彼は中国人民とともに暮らし、同じ物を食べ、救護のためにどんな僻地にも最前線にも赴いた。敵軍が迫るなか69時間ぶっ通しで115名の手術を敢行し、自分の血を輸血するほどの献身を見せた白求恩恩を求む白人の到来は、「国際共産主義は中国を必ず支援する」という毛沢東の予言の成就にほかならなかった。彼はやがて中国人の間で伝説となり、軍歌となった。八路軍兵士たちは「攻撃だ! 白求恩は我らとともにいる」を合言葉に戦った。

 だが日本軍の包囲の中で、医薬品が欠乏していった。手袋なしで手術していた彼は、手術中に指を切ったのが原因で敗血症にかかり、治療薬を手に入れることもかなわず、河北省唐県黄石口で波乱の生涯を閉じた。

 遺体は軍城に葬られ、彼の国際奉仕を表して地球儀型の墓標が建てられた。これは日本軍の包囲の目をかいくぐって、村人たちが秘かに山へ行って大理石を切り出して造ったものだった。だが日本軍は唐県に侵攻したとき、これを射撃の標的にした。模範病院も次々と破壊された。避難した人々は口々に「この冒瀆が回復されるまで、決テキスト ボックス: 手袋なしで手術するベチューン。彼が中国人民の靴を履いていることに注意。してこの地に戻らない」と誓ったという。

 

 

*    *    *    *    *    *    *

 

 人々がこの地に戻って来たとき、日本軍の姿はもはやなかった。墓は石家荘の烈士陵園に再建され、その付近には模範病院が白求恩国際和平医院として再建され、構内に白求恩記念館が設置された。そして毛沢東の追悼辞「ノーマン・ベチューンを記念する」は、毛沢東が神格化され、毛沢東語録の携帯・暗記が義務づけられた文化大革命時には「愚公山を移す」「人民に服務せよ」と並んで三大必読文献「老三篇」テキスト ボックス: 手袋なしで手術する姿を描いた切手。の一つとなり、大多数の中国人民がこれを暗唱した。白求恩の生涯を学ぶことは小学校のカリキュラムに取り入れられ、手袋をつけずに手術する姿は切手の肖像にさえなり、「白求恩より有名なのは毛沢東だけ」とさえ言われるようになったのである。

 

テキスト ボックス: 石家荘の烈士陵園に再建されたベチューンの墓(像の右の球体)。 しかしカナダ国内では、彼は全く無名だった。1943年カナダ労働会議は、ベチューンを重要カナダ人に指定するよう陳情したが、キング首相に無視された。ところがこのころ中国を訪れたカナダ人たちが、「ベチューン博士の同国人」と挨拶されて驚いたという報告が相次いだ。彼らはベチューンが誰なのか知らなかったからである。また1960年に京劇訪加団がベチューン記念慈善興行を申し出たとき、ロイヤル・ビクトリア病院の関係者は仰天したという。

 だがカナダは、小麦貿易の相手として中国を必要とした。ベチューンは踏み絵だった。中国の承認は、共産主義者ベチューンの承認を必要としたのである。するとマスコミの間で、彼が重要カナダ人にふさわしいかどうかという一大論争が巻き起こった。しかし1971年、トルドー内テキスト ボックス: 「合言葉は『ベチューン』だってさ。」 突然ベチューンを持ち上げだしたトルドー政権の、真の理由を諷刺したピルスワースの漫画。小麦袋を運んでいるのはカナダのシャープ外相、戸口に立っているのは、自分たちも内心では中国と取引したいと思うアメリカとオーストラリア(トロント・デイリースター、1972年)。閣によって加中国交が締結されると、中国人が続々とオンタリオ州の田舎グレーブンハーストの生家に詣でるようになったのである。ここに至って政府はこのような動きを無視できなくなり、翌年ベチューンを重要カナダ人に指定し、さらにその翌年には生家を買い取って、ベチューン記念館として1976年に開館した。彼はようやく祖国で認められるに至ったのである。1964年にはカナダ国立映画局によって映画「ベチューン」が制作されたが、「共産主義者を讃美する映画」を制作したという非難が殺到し、アメリカ政府からも国内で配給しないよう抗議を受けている。

 今日、強制保険制度も公営医療制度も当たり前になっており、物笑いの種になった「サナトリウム作業所」も、職テキスト ボックス: カナダ人俳優ドナルド・サザーランド主演の映画「ベチューン─メイキング・ア・ヒーロー」(1993年)。業補導協会によって後年実現された。また、安静療法か気胸療法かの長年の論争も、1940年代の化学療法の導入により終止符が打たれた。ベチューンの名を冠した気胸療法専用器具も廃用に帰し、ベチューン式肋骨用大鋏だけが今日もなお使用されている。彼が望んだ通り、時代はようやく彼に追いつき、そして追い越していったのだった。

 

 

 

 

 

[7] インシュリンの発見

   Frederick Grant Banting   (1891−1941)

   John James Rickard Macleod(1876−1935)

   Charles Herbert Best    (1899−1978)

   James Bertram Collip    (1892−1965)

 

 フレデリック・バンティングはオンタリオ州アリストンの農家に生まれ、1916年トロント大学で医学を修める。第一次大戦中は軍医として働き、1920年オンタリオ州ロンドンに整形外科医を開業したが、客が来ないのでロイヤルゼリーの効能や、マスタードガスの研究などをし、ウエスタン・オンタリオ大学講師の職を得ていた。

 ジェームズ・マクラウドはイギリスのクラニーに生まれる。1898年アバディーン大学で生理学を修め、ライプツィヒ大学に留学し、1902年ロンドン大学講師、1903年ウエスタンリザーブ大学教授、1918年トロント大学教授となる。当時彼は炭水化物代謝の世界的権威として知られていた。

テキスト ボックス: バンティング生家(オンタリオ州アリストン)。 チャールズ・ベストはメイン州ウエストペンブロックに医者の子として生まれ、トロント大学で生理学と生化学を学ぶ。在学中に第一次大戦に出征。戦後復学し、最終学年では成績優秀で銀メダルを取り、将来を嘱望されマクラウドの助手となる。

 バートラム・コリップはオンタリオ州ベルビルに生まれる。1912年トロント大学で生化学を修め、1916年理学博士となり、1920年アルバータ大学教授となる。彼は一年間の休暇中、奨学金を受けてトロント大学で講師の身分で研究生活を送っていた。

 

 当時糖尿病は不治の病で、考えられる治療法は、炭水化物代謝のできない患者に超低カロリー食を与える「減食療法」しかなかったが、調節を誤ると栄養失調で死ぬこともあった。だが1889年ドイツのヨーゼフ・フォン=メリンクとオスカー・ミンコフスキーは、動物の膵臓を摘出すると糖尿病になることを発見し、膵臓の内分泌機構が大きく関係していることが明らかになった。

 バンティングは19201030日の夜、寝る前に医学雑誌を読んでいたとき、モーゼス・バロンの論文に、

「膵臓の外分泌管を縛り十二指腸から切り離しても糖尿病にはならないので、消化酵素とは異なるものが糖尿病を阻止している」

テキスト ボックス: ロンドンのバンティング邸跡に建てられた「インシュリン誕生の地」碑。ここは彼がインシュリン研究を思いついた場所であり、実際にインシュリンが発見されたのはトロント大学である。とあるのを見た。彼はその夜ベッドに入ったものの、様々な考えが脳裏を駆けめぐり、眠れなくなってしまう。そして夜中の2時に机に向かい、ノートに

「犬の膵管を結紮し、腺房が変性して膵島から分離するまで犬を生かす。尿糖を減少させるためにその内分泌物の分離を試みる。」

となぐり書きした。

 彼は翌朝さっそく主任教授に相談した。するとこの大学では設備がないが、トロント大学のマクラウド教授ならその分野に詳しいので、相談してみたらどうかと言われる。そしてバンティングは、たまたま次の週末にトロントに行く用があったので、マクラウドに会いに行った。

マクラウドは、研究経験の乏しい若い開業医が、教科書に書いてある程度の知識で緊張しながら話すのを聞かされ、そのような研究は何人もの学者がやってきたと言って、引き取ってもらおうとした。だがバンティンクはしぶとく食い下がり、実験室を貸してくれるよう頼むのだった。話すうちマクラウドは、膵臓を変性させる発想に興味を引かれた。また膵管の結紮や膵臓の移植のための、外科医としての技術にも興味を持った。それで「この研究が失敗したとしても、生理学的に意味があるだろう」と告げて、スコットランドに行く夏期休暇の数週間に研究室と実験用の犬10匹、そして助手を貸す許可を与えた。マクラウドが成績優秀な2人の学生、ベストとクラーク・ノーブルに、この研究は失敗に終わるだろうが、この方法は失敗するということが確かめられる必要はあるし、少なくとも外科技術を学ぶことはできると告げると、2人はコインを投げて、ベストが助手に決まった。これは歴史を変えるくじとなった。このときわずかにバンティング29歳、ベスト21歳のことであった。

 だがバンティングは、医院の経営がうまくいかず、それが遠因となって婚約も解消したため、ロンドンから逃げ出したかったのである。知人たちの勧めでようやく、大学のポストも残し、医院もやめず、夏休みだけ研究することにしたのだった。1921年5月14日、バンティングはトロントに向かい、ベストとともに5月17日、もう10年以上使われていなかった研究室を掃除した。そしてこの日から、実験は始まったのだった。

 うだる暑さに耐えながら、二人は老朽化した研究室で連日手術を行った。しかしバンティングは犬の手術をしたことがなかったので、膵切除の際に出血多量、麻酔過量、感染症などで14匹も死なせてしまい、街へ犬を買いに行かなければならないほどだった。それでも7匹の犬に膵部分切除を行い、その後膵管を結紮すると、そのうち2匹の膵臓が変性しており、外分泌物を産生する細胞が破壊されたと考えられた。そこで変性した膵臓を取り出し、抽出物を調整して糖尿病の犬に注射すると、血糖値が低下した。そこでバンティングはその抽出物に、島細胞を意味する英語に因んで「アイレチン」と命名した(マクラウドが後にラテン語でインシュリンと改名)。

 9月末にマクラウドが帰国し、研究できる期間は終わっていたが、バンティングは予想外の進展に気を良くし、研究を続けるつもりで、大学の職を辞し、医院も閉鎖して自ら背水の陣を敷いた。そしてマクラウドに研究室の修繕、給料、犬の世話人などを要求した。バンティングは

「トロント大学がこの研究を認めないならよそへ行く」

と言ったが、マクラウドは

「君に関しては、私がトロント大学だ」

と答えた。新しい校舎が完成したら使わなくなる研究室を、修繕する気にはなれなかったのである。バンティングはその直後、「あのチビ野郎がトロント大学なんかじゃないことを教えてやる」とベストに漏らしている。

テキスト ボックス: バンティング(右)とベスト(左)。中央の犬は、膵臓を摘出されながらインシュリンによって70日生存したマージョリー。 その後バンティングの要望で、マクラウドとコリップがチームに加わった。チームは役割を分担して、バンティングが必要な手術を行い、ベストは膵臓を集めて抽出の第一段階を済ませ、コリップが抽出物を精製するものとした。生化学が専門のコリップは独自の方法を考案し、バンティングのものより純度が高く、副作用のないインシュリンの調整に成功した。また彼は、インシュリンによって肝臓がグリコーゲンを生成できるようになることを発見した。

 

 いつの間にかマクラウドが監督で、コリップがエースで、バンティングとベストは助手になっていた。研究を始めたバンティングとベストという、2人のアマチュアの情熱は、インシュリン発見時にはいなかった、プロの研究医であるマクラウドとコリップにかき消されつつあるように思えた。アメリカ生理学会での研究発表の際、初めての体験でバンティングはすっかりあがってしまった。そのうえバンティングとベストの研究は問題点が多く、高名な学者たちから厳しい質問を浴びせられた。学会には慣れているマクラウドは、2人をかばって代わりに答弁したが、このできごとはバンティングに屈辱を与える結果となった。またマクラウドが「私たちの研究」と答弁したこと、そしてバンティングは糖尿病患者を扱ったことがなかったため、トロント総合病院での臨床実験をダンカン・グレアム教授(マクラウドと親しかった)に断わられたことも、自分の功績を奪おうとしているという猜疑心をかき立てた。

 焦ったバンティングは、自分とベストが最初に人体投与ができるよう申し入れ、自分とベストが抽出したインシュリンを、1922年1月レナード・トンプンに注射したが、効果はなかった。数日後コリップの抽出したインシュリンを注射すると、血糖値が低下した。4人の中でただ一人医者でない、生化学者のコリップにとっては専門分野であり、当然ともいえる結果である。そこでバンティングは抽出法をきいたが、コリップは回答を拒否した。インシュリンの抽出はコリップの分担であり、バンティングらがインシュリンを抽出して投与したのは協定違反と見たのである。コリップはインシュリン発見の権利をバンティングに認める代わりに、抽出法で特許を取ろうと考えていたふしがある。しかし日々糖尿病患者が死のうとしているとき、それはバンティングにとって非協力的で利己的に思えた。彼は逆上してコリップを殴ってしまう。そしてコリップは、トロント大学との契約切れを理由にチームを去って行った。

 1923年バンティングとマクラウドは、カナダ初のノーベル賞(生理学・医学賞)に選ばれる。しかしバンティングはマクラウドも受賞すると聞いたとき、

「畜生、マクラウドの頭から出て来たアイデアが一つでもあったか! 一度でも自分で手を汚して実験したことがあったか!」

と叫んだという。彼はベストこそ受賞にふさわしいとして、賞金の半額を分け与えると発表した。2週間後、マクラウドもコリップに半額分け与えると発表した。

 

 農家の生まれ、はやらない開業医、不思議な夜のアイデア、貧乏に耐えた日々、古い借り物の研究室にたった一人の助手・・・人々はサクセスストーリーを求めていた。有名になってからも臨床医として患者の診察を続け、そしてアメリカからの好条件の誘いを蹴ってカナダに留まり、カナダ軍に出征もしていたという彼の愛国心と、インシュリンの特許を1ドルで大学に譲ったという無私の精神は、カナダ人を熱狂させた。その当時糖尿病患者は百万人以上いたが、インシュリンはわずかしかなく、そのほとんどはバンティングが管理していた。議会で終身年金を受けることも決まり、若くして絶大な権力を握った彼は、やがてマクラウドへの敵意を現わにしていく。「利己的で、いつも他人のアイデアを盗んでいる」とか「言葉は下痢のように出てくるが、アイデアと結果は便秘状態」などとことあるごとに批判されたマクラウドは、1928年ついにトロント大学退職に追い込まれる。バンティングは送別会の出席を拒否したばかりか、空席の自分の席を用意しておくよう要求さえしたという。

 マクラウドはその後、イギリスに戻ってアバディーン大学教授となり、小腸の糖吸収、大脳や内臓を摘出された動物の呼吸などを研究し、医学教科書の執筆で評価された。彼の温厚な人柄は同僚や学生たちに好評だったが、トロントでのできごとについては決して口にすることはなかったという。

 人々は、バンティングが今にも次の医学上の大発見をするものと期待していた。そこでトロント大学構内にバンティング&ベスト医学研究所が創設されたが、彼は当初、自分の名がベストと対等に扱われているのを快く思わなかったという。彼の名声を慕って多くの学生たちが集まって来たが、彼は何の準備もしていないという有様だった。研究医としての訓練を受けたことがなく、抜群のひらめきで栄光の座についた彼は、「研究に必要なことは訓練ではなくアイデアだ」と称して、つまらない作業は助手に押しつけていた。彼は1923年「3年前に婚約し、2年前に結婚したインシュリンとは、ここに離婚する」と宣言して、全ての細菌を殺す「アンテキスト ボックス: ジェームズ・マクラウド。チトキシン」の調整に挑んだが失敗。次にウサギの精子をメスのウサギに注射し、抗癌剤「スペルモトキシン」を調整しようとしたが再び失敗。彼のこの「王国」は何の成果もなく、飲んだり騒いだりの、名目だけの存在だったという。

 そんな彼も1924年、トロント総合病院のX線技師と結婚するが、夫婦仲は悪く、彼は酒浸りとなり、8年後実際に離婚を体験する。そして1939年に研究所の助手と再婚。1934年にはナイトに叙せられた。このとき貴族(・・)となったフレデリック・バンティング卿は「今後私に『サー』をつけて呼ぶやつは、ケツに蹴りを入れてやる」との名言を残している。もう誰も彼を止めることはできなかった。一度グレアム教授の秘書が言ったことがある。「あなたはまるで15の子供ですわ!」

 1941年2月20日、バンティングは軍医として戦地に赴く途中、飛行機が墜落して死亡した。田舎者が努力して報われ、国家のために命を捧げた彼は、国民的英雄とされた。彼は学者としてより、人として成功したと言われている。

 コリップは1922年アルバータ大学教授に復帰し、同時に医学部で学び1926年医学博士号も取得。1928年マギル大学教授、1947年ウエスタン・オンタリオ大学学部長となり、1957年までカナダ医学研究機関の議長を務める。後年バンティングと和解し、1941年2月16日にモントリオールのホテルで会っている。このときバンティングは「インシュリン発見の功績は、80%は君、10%がベスト、残りがマクラウドと私だ」と語ったという。5日後バンティングは事故死した。

 「インシュリンチームのベストサイエンティスト」と呼ばれたコリップは、その後副甲状腺ホルモン、成長ホルモン、甲状腺刺激ホルモン、副腎皮質刺激ホルモンを単離し、ホルモン研究の権威となった。彼もまたインシュリンにまつわるエピソードを語りたがらなかった。

テキスト ボックス: 左からコリップ・ベスト・スター夫人・バンティング。インシュリンチームの四人が同時に写っている写真は存在しない。

 くじでインシュリン発見者の光栄に浴し、「ラッキーガイ」と呼ばれたベストは、その後も謙虚に学びを続ける必要を感じた。だが恩師マクラウドとバンティングの板挟みに悩み、イギリスのロンドン大学に留学して忘れようとした。1925年医学博士号を取得し、コンノート研究所の副理事、1927年にはマクラウドの後任としてトロント大学教授となる。だが彼はカナダにおいて、バンティングと名声を分かち合わなければならないという、恐るべき運命から逃れられなかった。バンティングはベストの台頭を警戒し、ベストは無知で粗暴なバンティングを尊敬していなかった。この緊張関係はバンティングの死によって解消し、ベストはバンティング&ベスト医学研究所の所長、カナダ医学研究機関代表に就任する。インシュリンを避けて通った彼は、肺のヒスタミン分解酵素作用、コリン代射、ヘパリンの単離、グルカゴンの作用などの研究で評価され、第二次大戦中には、夜間視覚の研究で赤色信号が効果的であることを示し、これは日本との海戦で実用された。学生時代から将来を嘱望されていた彼は、晩年にしてようやく若い日の栄光にふさわしい業績を成し遂げたのだった。

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 ルーマニアのニコラス・パウレスコやドイツのゲオルク・ツュルツァー、アメリカのアーネスト・スコット、ジョン・マーリン、イズリアル・クライナーも、トロント大学チームと同様の研究を進めていたため、ノーベル賞受賞に関して抗議が殺到した。にもかかわらずトロント大学チームがノーベル賞に選ばれた理由として、コリップが副作用のないインシュリンを調整したこと、マクラウドの権威がトロント総合病院での臨床実験を可能にしたこと、イーライ・リリー社と提携していち早くインシュリンを商品化し、多くの人命を救ったことがあげられる。だがバンティングは死ぬまで、膵管結紮という偉大な発想こそ唯一の価値だと思い込んでいた。ところが1922年にフランコン・ロバーツは論文で、膵管結紮によって蛋白分解酵素である外分泌物トリプシンから膵内分泌物を保護するという、バンティングの仮説は誤りであると指摘した。このような反応は実際には起こり得ないため、結紮する必要がないのである。彼はこう結論づけている。

「インシュリンの発見は、誤った発想、誤った処理、誤った解釈の実験に基づいている。(中略)バンティングとベストの実験は、結論としてトリプシンが蛋白分解酵素としてインシュリンに何の影響も与えていないということを示しているに過ぎない」

このような研究がノーベル賞に値しないことは言うまでもない。これに対し、医学界の重鎮ヘンリー・デイル博士は、結果的にインシュリンは発見されたのだから、その経過に誤りがあったからと言って非難するべきではないとして、2人への批判をタブーにしてしまった。彼はこうも述べている。

「誤った構想によって敷設されたコースから、これに交差する正しい道へと、つまずいたはずみに出てしまったのだ」

 およそ研究者に向いてない一開業医が、誤った理論に基づき、全財産と婚約者を犠牲に研究を始めた。非科学的ともいえる情熱を持った男は、良きパートナーに恵まれ、幸運の女神はこのような男に、生涯ただ一度ほほ笑んだのだった。カナダ人は今もバンティングを英雄視する。性格上の数多い欠点にもかかわらず、歴史は彼を必要としたのである。「ラッキーガイ」はベストではなくバンティングだった。遅れて参加したコリップは不運としか言いようがない。「栄光は皆に十分」であったが、ノーベル賞の定員は3名までだったのだ。

テキスト ボックス: 映画“Glory Enough for All”より。左はバンティング役のR・H・トムスン、右はベスト役のロバート・ウィスデン。 なお4人の働きを描いたマイケル・ブリスの小説「インシュリンの発見」は、後に“Glory Enough for All”のタイトルで1988年に映画化された。

 

 

 

 

[8] ストレスの発見

   Hans Hugo Bruno Selye(1907−1982)

 

 オーストリア=ハンガリー帝国の首都ウイーンで、三代続いた外科医の家に生まれる。父フーゴはハンガリー人、母マリアはオーストリア人で、家にはイギリス人とフランス人のメイドがいたため、セリエはドイツ語、ハンガリー語、チェコ語、スロバキア語を母語とし、幼いころから英語とフランス語を話したという。少年期をハンガリー人居住区のコマロムで過ごすが、1918年第一次大戦に敗れ帝国は解体し、一家は突然チェコスロバキア人になった。

 セリエは17歳でプラハ医科大学に入り、パリ大学、ローマ大学に留学し、23歳にして医学博士となる。1932