
[17] 世界標準時の考案
Sandford Fleming(1827−1915)
イギリスのカーコルディに生まれる。生まれつき色盲だったが、幼少のころより絵画と数学に非凡な才能を示したフレミングは、14歳で測量技師の徒弟となり測量と機械工学の手ほどきを受ける。
1845年、兄のデビッドとともにオンタリオ州ピーターボローに移民する。測量士の資格を取得して、ピーターボローとカバーグを測量し、当時カナダになかった石版で地図を作成したところ、飛ぶように売れた。1852年から1863年までオンタリオ・シムコー・ヒューロン鉄道(後のカナダ北部鉄道)、1853年から1876年までインタ
ーコロニアル鉄道、1871年から1880年までカナダ太平洋鉄道と、カナダ三大鉄道の主任技師を務め、大陸横断鉄道の開通に尽力する。この路線の敷設に関しては、汚職事件「パシフィック・スキャンダル」が
1872年に発覚し、保守党のマクドナルド内閣が総辞職して、自由党に政権を明け渡すという政変が起こり、またその翌年からの不況などの困難に見舞われ、事業は難航したが、1885年に完成した。
彼は政治家ではなかったが、政治に強い関心を持ち続けた。保守党は1880年に政権を奪回したが、フレミングはチャールズ・タッパー(後の首相)との関係から、病気のマクドナルド首相の後継争いに巻き込まれ、同年カナダ太平洋鉄道を辞職に追いやられている。しかし1888年にロンドン、1894年にオタワで開催された大英帝国植民地会議や、1896年にロンドンで開催された帝国電信会議のカナダ代表を務めている。1897年にはナイトに叙せられた。また1851年には彼の描いたビーバーの絵が、カナダ最初の切手(3セント)に採用されている。
だがフレミングの最も偉大な業績は、世界標準時の考案である。19世紀には世界中で鉄道の敷設が進められていたが、徒歩や馬車で移動していたころには考えられなかった問題が浮上した。それは例えばハリファックスから汽車でトロントに行くとき、時差があるため実際の移動時間より1時間5分早く着くということだった。
当時各都市は太陽が真上に来るときを正午と定め、それぞれ異なる時差があり、しかもそれは今日のようにゾーンごとに1時間刻みではなく、都市ごとに分刻みだったのだ。そこで旅行者は時計をいくつも持たなければならず、また各鉄道会社も時刻表を現地時間で作ったり、起点の時間で作ったりと混乱していたのである。
彼はこの複雑な問題を解決するため、古今東西の時刻に関する研究を始めた。イタリア人、ボヘミア人、ポーランド人などは24時間制を用いていた。日本人は一日を12時間制とし(すなわち1時間は120分)それぞれに動物(十二支)の名をつけ、それをさらに12分割して一日に144の区分を用いていた。古代エジプト人の一日は午前6時から午前6時で、一日を午前と午後の2つに分け、その2つをそれぞれ12の区分に分割していた。ユダヤ人、トルコ人、オーストリア人の一日は日没から日没までで、アラビア人の一日は正午から正午までであった。またニュージーランドは1868年11月2日、世界に先がけて国内単一時刻を採用していた。
彼はこれらの例を参考に、午前と午後の混乱を避けるため24時間制とし、世界中の都市が統一の時刻を用いる「地球時」を発表する。そして1878年、アイルランドのタブリンで開催された英国科学推進協会の協議会で、各国に「地球時」を採用するよう呼びかけたが、「利益がない」として黙殺された。この案ではロンドンが12時のとき世界中が12
時であり、ロンドンの正午が12時ならバンクーバーの正午は4時で、一日は16時から16時までとなってしまう。ほとんどの国では昔から一日は0時から24時で、昼食は12時に摂るものと決まっており、そもそも時間というものは人の生活のために設定されたものであって、人が時間に(それもロンドンの)合わせるような案は不自然なのだった。
しかし彼は、1869年にアメリカのチャールズ・ダウドが考案した「鉄道時」を参考に、今日使われている「世界標準時」を1878年に考案する。これは世界を24のタイムゾーンに分け、それぞれの時差を一時間ずつとするもので、これならばどのゾーンでも一日は0時から24時であり、またゾーン内に分刻みの時差もない。彼の論文が翌年学会から出版されると、世界各地に植民地を持つイギリスと国土が東西に広いロシアがこれを支
持し、後押しした。
また標準時の問題とは別に、本初子午線を決定するという問題があった。多くの国は天文台のあるイギリスのグリニッジを本初子午線としており、アメリカも同様だったが、国際地理学会は1875年、カナリア諸島のフェルロを基礎子午線と決定していた。これは、国際的に通用するものとして特定国の首都などは避けたほうがいいという考えによるものだったが、この地がパリとちょうど15度違いというのが真の理由であり、フランス以外の国には不評だった。
アメリカの提唱で1884年に国際子午線会議が招集されると、フレミングは委員長に指名される。本初子午線はエジプトのピラミッドやエルサレムに置くべきだという意見も出されたが、裏側(日付変更線)が太平洋の中心にあたるイギリスのグリニッジが本初子午線(経度0度)に選ばれ、世界標準時も承認された。フレミングが作成したタイムゾーンは、地方の問題であり会議の権限でなく、会議の目的は本初子午線の決定であるという理由で国際統一規格とはならなかったものの、ヨーロッパ諸国や日本など25ヶ国がこれを承認し、20世紀初頭にはほとんどの国がこれを採用したのだった。
世界各国が世界時を採用すると、ダウドは自分こそがこのシステムの考案者だと主張した。彼は「鉄道時」を1869年、鉄道会社に上申し、翌年「鉄道のための国家的時刻制度」というパンフレットを出版したが、これによるとアメリカを15度ずつに4つのタイムゾーンに分割し、それぞれ第1・第2・第3・第4ゾーンとし、それぞれの時差を1時間としていた。第1ゾーンの中心子午線は、ワシントンであった。後にカナダを含め5つのタイムゾーンとして、このシステムは1883年11月18日、アメリカ鉄道協会に採用された。協会は、政府が先にタイムゾーンを設定する前に、私鉄各社の境界に合わせた都合のよいタイムゾーンを鉄道会社が先駆けて設定すれば、既成事実化できるだろうと考えたのである。
だがこれは鉄道会社による私的な決定であり、法律に基づく公的なものでなかったので、多くの市町村はこれを採用せず、独自の時刻を維持し続けた。新聞はこの日「2つの正午を持った日」と報じた。というのは、閉店時間の違反で起訴されたアイオワ州の酒場の経営者が、自分は鉄道時ではなく地方時に基づいて営業していると主張して無罪となるなど、2つの時刻が社会問題化する兆しが見えていたからである。
その後も標準時は地域の問題となっていたが、1918年のサマータイム導入の際、世界標準時が正式に法律で制定され、ダウドの「鉄道時」は放棄された。

フレミングは世界を1時間ごとに24のタイムゾーンに分けたが、各国の事情により30分違いのゾーンも成立した。
太平洋ケーブル(カナダ−フィジー−ニュージーランド−オーストラリア)の設置も、フレミングの提言によるものである。1902年に開通したとき、カナダに初めて届いたのはニュージーランド首相からのフレミングへの祝電だった。
世界がまさに狭くなろうとしていた時代に、彼は交通と通信の発達に邁進し、その当然の結果として生まれた標準時という遺産を残し、1915年ハリファックスでその八面六臂の生涯を閉じた。
[18] 世界初のラジオ放送
Reginald Aubrey Fessenden (1866−1932)
レジナルド・フェッセンデンはケベック州イーストボルトンで、貧しい牧師の父イライシャ=ジョゼフとジャーナリストの母クレメンティーナの子として生まれた。母の父エドワード・トレンホームは揚穀機、穀物冷蔵庫、除雪車などを発明しており、孫に少なからぬ影響を与えたことだろう。
フェッセンデンはド=ボー陸軍学校、トリニティー大学を卒業して、ビショップス大学、ホイットニー学院で教鞭を取るが、発明を志し、職を投げうって1886年エジソンのいるレウェリンパーク研究所の門を叩く。だがそこは彼のような志願者が入れ替わり立ち替わり押しかけてくるようなところだった。「電気に関してどんなことを知っていますか」という質問に「特にありません」と答えた彼は、門前払いを食らってしまう。だが独力で電気工学を勉強して何度もエジソンのもとに押しかけ、あまりのしつこさに根負けしたエジソンは、ついに彼を研究所のメンバーに加えることにした。
研究所に入ったフェッセンデンはすぐに頭角を表し、1887年に化学部門のチーフ、1890年には電気部門のチーフに昇格する。彼はニスにタンザニア産のゴムを混ぜると美しい光沢が出て、より長持ちすることを発見した。またエジソンの作った電球は、プラチナのフィラメントを使っていたため高価で寿命も短かったが、フェッセンデンは鉄とニッケルの合金のフィラメントを作って特許を取り、これは1893年のシカゴ博覧会にも出展された。またオーバーヒートしやすかった当時のモーターから鋼鉄中の炭素を取り除き、代わりに硅素を含む合金のものを作ったが、これは今日も使用されているものである。
彼は生計を立てていくため、パーデュー大学とピッツバーグ大学で教えていたが、1901年にマルコーニがニューファンドランド島でイギリスからの無線を受信する実験に成功したという知らせを聞く(エジソンは、電波は真っすぐに飛ぶので天に届くはずであり、地表に沿って丸く飛ぶはずはないと考えたが、実は大気中の電離層が電波を反射するという事実は当時知られていなかった)。だがこれは、単一の周波数により音の長短でモールス信号の“S”が一方通行で送られただけで、フェッセンデンは肉声や音楽を無線で伝え、しかも双方向で会話ができないかと考えた。彼は無線の知識がなかったので、まず勉強することから始めたが、周囲の人々はそれを不可能だと言い、たとえできても実用性のない高価なおもちゃにしかならないと酷評したので、彼は研究を秘密裏に行なわなければならなかった。
発明に専念するため彼は大学の職も投げうち、アメリカの富豪トーマス・ギブンとヘイ・ウォーカーの援助でナショナル電気信号社を創立する。ラジオ波の振幅を調節して音の波を形成するというAMの原理を開発し、これにより異なる周波数の音の受信と伝達が可能となり、会話と音楽の両方を再生できることになった。そして1900年12月23日、メリーランド州ポトマック川のコブ島で、ラジオ塔から1,600メートル先のラジオ塔へ自分の肉声を送る公開実験を行い、世界初のラジオ通信(無線電話)に成功する。そのとき彼がマイクに向かって発した歴史的な第一声は「もしもし、1、2、3、4、そちらは雪が降っていますか? ティーセン君、もしそうなら電報で返事をくれ」だった。彼はさらに改良を重ね、1902年にはヘテロダイン式受信機を発明。これは、受信周波数より低い周波数を受信機内部で発振させ、それと受信周波数とを非直線性を持つ混合用真空管に加えることによって差の周波数を作り出し、十分に増幅したのち検波して、さらに可聴周波数で増幅することによって高い感度と良い選択度を得られるものである。また1906年には高周波発電機(フェッセンデン=アレクサンダーソン高周波発電機)を開発する。理論的には、交流発電機の回転を速くすれば高周波が得られるが、技術的に回転数には限度があるので、彼は360本の電極を1分間に8,500回転させて50キロヘルツの高周波を得ることに成功した。高周波発電機によって彼は100キロヘルツもの高周波を得て、その年の秋にはマサチューセッツ州ブラントロック─プリマス間で18キロの長距離通信にも成功する。世界初のAMラジオ放送実現は、目前に迫っていた。
1906年12月24日、大西洋を航行していたユナイテッド・フルーツ社の貨物船で、乗組員たちが果物相場の動きをモールス信号で聞いていた。ところが午後9時になると突然“CQ,CQ,CQ”のモールス信号が割り込み、続いて蓄音機の奏でるクセルクセスの「ラルゴ」が流れてきたので、彼らはクリスマスイブに奇跡でも起こったのではないかと思い、ただ目を白黒させるばかりだった。実はフェッセンデンがブラントロックのラジオ塔から送信していたのである。続いて美声の持ち主、助手のスタインが歌う予定になっていたが、マイクを前に尻込みしてしまったので、フェッセンデンはすかさずバイオリンをつかんで“O
Holy Night”を演奏し、最後のフレーズは弾きながら歌った。歌もバイオリンも決して上手とは言えなかったが、彼は世界初の栄誉をバックに全く気にとめることはなかった。次に妻のヘレンと秘書のベントが聖書から、キリストが生まれたときの天使たちの讃歌を朗読するはずだったが、2人とも緊張して声が出ないので、再びフェッセンデンが聖書を読み上げた。
Glory to God in the highest, いと高きところに、栄光が、神にあるように。
And on earth peace to men of good will. 地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。
メリー・クリスマス!
こうしてクリスマスイブの快挙は終わったのだった。
その後も彼は測深機(ファソメーター)、無線方向探知機、曳光弾、敵砲探知機、マイクロ写真、ポケットベル(頭部につけるもの)、装甲車のための煙幕、など生涯に500以上の発明を手がけた。だが彼はエジソンやマルコーニのように自分の会社を創らず、ギブンとウォーカーの会社に巧みな契約で事実上特許権を奪われ、生涯を通して貧乏だった。またベルのように自分の名前を会社につけなかったため、彼は歴史から忘れられていったのだった。
しかし1928年、特許権をめぐる裁判で勝訴し、250万ドルもの損害賠償を受け取った。彼が裕福になることができたのは、その生涯が終わろうとしていたときのことだったのである。
[19] 若き天才建築家−危険な情事
Francis Mawson Rattenbury(1867−1935)
弱冠25歳でブリティッシュ・コロンビア州議事堂を設計し、天才の名をほしいままにした建築家フランシス・ラテンブリーは、同時にスキャンダルに悩まされ、後半生は金銭難に陥り、悲惨な最期を遂げた。
イギリスのリーズで牧師の子として生まれる。ヨークシャーカレッジに入学するが中退し、17歳でおじの経営する建設会社に勤める。そこでめきめきと頭角を現わし、これ以上何もおじから学ぶことはないと悟った彼は、25歳のときカナダに渡った。
そのころ、ビクトリアでブリティッシュ・コロンビア州議事堂
の設計が公募されていた。そこで彼はさっそく応募したところ、65の応募作品の中から彼のものが採用された。そして賞金4万4千ドルを手に
入れた彼は、若き天才建築家としていちやく脚光を浴びたのだった。
その後彼はエンプレスホテル、副総督官邸(ケアリー城)、ビクトリア高校、グレン・ライオン学校(元彼の邸宅)、蝋人形館、ホテルバンクーバー旧館、バンクーバー美術館(元裁判所)、チリワック・ネルソン・ナナイモの裁判所などの設計を次々と手がけることになる。だがユーコンのゴールドラッシュが彼の人生を変えた。彼は突然財テクに血道をあげ、ユーコンへの蒸気船を運行するベネット湖&クロンダイク交通社の取締役になり、グランドトランク太平洋鉄道に多額の投資をする。第一次大戦中カナダは好景気に沸いていたのだ。ところが戦争が終わると景気は悪化し、グランドトランク太平洋鉄道は倒産した。そして彼はこれ以後金策に追われるようになり、急速に創作意欲を失っていくのである。



ラテンブリーはフローレンス=エレノアを妻としていたが、1922年にエンプレスホテルで催されたパーティーで、美人音楽家アルマ=ビクトリアと運命的に出会う。彼女は1914年に不動産会社社長のドーリング氏と結婚したが、夫は第一次大戦で戦死し、その後大学教授パッケナム氏と再婚したが、ほどなく離婚していた。美人だがなぜか薄幸の女だった。
ラテンブリーはアルマと交際を深め、2人はやがて不義の仲となる。しかし女性でありながら仕事を持ち、タバコを吸い、最先端のファッションに身を包み、年の離れた男性との不倫に走る彼女に、保守的なビクトリア朝時代の人々の目は冷たかった。ラテンブリーは離婚を拒否する妻を二階の一室に追いやり、アルマを自宅の一階に住まわせて同棲したが、あまりの仕打ちに人々は眉をひそめ、かつての顧客も離れていった。
フローレンスは1925年に離婚に合意し、ラテンブリーはその3年後にアルマと入籍するが、フローレンスとの子メアリーとフランクは、継母のアルマに反抗的な態度をとり続けたため勘当した。街の人々は陰でアルマを「男を食うメス虎」と噂するようになり、居心地の悪くなったラテンブリー夫妻は1930年、2人だけでイギリスのボーンマスに移り、ビラ・マデイラと呼ばれる館に住んだ。
だがラテンブリーの生計は依然として苦しく、仕事も全く奮わなかった。彼はやがて鬱病にかかり、腑抜けのようになり、一人で塞ぎ込むことが多くなったばかりか、しばしば自殺さえほのめかすようになった。ところがアルマは結核の後遺症で性的欲求が高まり、満たされない夜はコカインに耽るようになった。彼女の生活はすさみ、やがて人格にも変調をきたしていった。
そんな中でアルマは、1934年9月23日ボーンマス・デイリーエコー紙に運転手の求人広告を掲載し、19歳の少年ジョージ=パーシー・ストナーを採用した。一人っ子のストナーは虚弱体質で、3歳まで歩けなかったという。幼いころはよく引きつけを起こし、学校は休みがちで、外に出ようとしない子供で、成績は悪く、友だちもなく、女性と交際したこともなかったという。
そんな魅力のない、しかし扱いやすい17歳年下のストナーを、アルマは誘惑してベッドに迎え入れた。彼女にとってはほんの戯れだった。だが男の喜びを知ったストナーはアルマに夢中になった。ストナーは嫉妬深く、夫と話しただけでも怒り出すので、アルマは恐ろしくなり、関係を
精算しようとしたが、別れ話を切り出すとストナーが逆上するので、発覚するのを恐れながらも、ずるずると関係を続けていたのだった。
1935年3月25日のことだった。アルマは落ち込みがちの夫を励ますため、翌日仕事仲間の家を訪ねようと誘ったが、ストナーはその話を聞いて激怒し、アルマに「2人で泊まったら殺す」と脅迫した。アルマは「夫と同じ部屋には寝ないから」と、子供じみた約束をして彼をなだめなければならなかった。
その夜、アルマがラテンブリーの部屋へ行くと、彼は頭部を鈍器で殴られ、血の海の中で死んでいた。すぐに警察が駆けつけ事情聴収を始めたが、アルマはストナーの犯行だと直感し、彼をかばって嘘の供述をしたため逮捕される。逃走したストナーも翌朝逮捕された。
ストナーの弁護士はコカインが原因だと主張し、責任能力がないことを訴えようとしたが、ストナーはコカインを茶色だと思っていたことが露見し却下された。裁判を理解していないように見えたストナーだったが、弁護士に「アルマ夫人に唆されたと言うのだけはやめて」と懇願した。5月31日の公判では、アルマは殺人とは無関係だとして無罪、ストナーには死刑が宣告されたが、マスコミはこぞってこの事件を、彼女の華麗な男性遍歴も含めておもしろおかしく報道し、世論は若いストナーに同情的で、彼をかどわかし自分だけ釈放された「メス虎」アルマに非難が集中した。
「彼が死刑になったら私も死ぬ」と口走ったアルマは、自殺防止のため病院に収容されたが脱走し、エイボン川の岸辺で胸を6回刺した。近くの農夫が気づいて近寄ったが、川に身を投げた。近くには遺書が残されていた。
「8時。ずいぶん長くさまよい歩いたあげく、ここに来ました。ああ、あそこにいる白鳥と花園を見るために。ここに来るのに勇気はいりませんでした。
ストナーがいつもしていたように、私はコインを投げてみました。そしてクライストチャーチに来たのです。ここはとてもきれいなところ。私たちは何と素晴らしい世界にいることでしょう。いつも好奇の目に晒されているよりは、首をくくる方が簡単でしょう。主よ、どうか今夜私を止めないで下さい。
今朝、オックスフォード広場で身を投げようと思いました。でも人が大勢いました。その次はバス。でもやっぱり人が大勢いました。人がこんなことをするには、大胆さが必要なのでしょう。
ここはとてもきれいなところ。そして私は一人。平安を与えて下さった主に感謝します。」
アルマは若いストナーに道を誤らせたことに負い目を感じ、自らの死をもって罪をつぐない、ストナーの命を救おうとしたのだった。
情痴殺人はたちまち美談に変わった。その後ストナーは減刑嘆願の署名を35万人分集め、6月25日の公判で無期懲役が確定する。7年後に出所し、26歳にして第二の人生を歩み始めた彼は、第二次大戦中に軍隊への入隊を特別に許可され、ノルマンジーの激戦地を生き残り、結婚して心静かな生活を得た。人目を忍んで暮らした彼は、マスコミの取材を頑なに拒み続けていたが、事件を扱ったテレンス・ラッティガンの戯曲「有名な事件」が1977年に公開されると、再び好奇の目に晒されることになった。1987年にはBBCがそのテレビ版の製作を始めたため、彼は長年の沈黙を破りそれを中止させようと抗議したため、BBCはジョージ・ストナーの役名を「ジョージ・ボーマン」と改めた。ストナーは1990年、公衆便所で少年に強制猥褻を働き逮捕され、2000年に死去した。

1999年1月28日のボーンマス・デイリーエコー。ストナー(立っている男性)は「事件は私と夫人の激情の中で起こったものだ」という短い声明を発表し、核心には触れなかった。その左は19歳のストナー、右はストナー夫人。足元の写真は右がラテンブリー、左がアルマ、中央が息子ジョン。その左の写真は、ラテンブリーが死んだ椅子。左側中央の女性は音楽家時代のアルマ。下はラテンブリーの殺害状況を再現した部屋。中央上の写真は1935年の事件を報じたボーンマス・デイリーエコー。
[20] 灯油の発見
Abraham Pineo Gesner(1797−1864)
エブラハム・ゲスナーはノバスコシア州コーンウォリスに生まれる。幼少のころから勉強好きで、石を集めるのが趣味だったという。父親も息子の勉強を奨励し、離れの小屋を実験室として与えたので、ゲスナーはそこで研究に熱中した。
学生時代に医師のウェブスター一家と親しくなり、その娘ハリエットと結婚。ゲスナーは馬商人になるが、商売は繁盛せず、多額の負債を抱え投獄の危機にさらされたため、ウェブスター一家の勧めでイギリスに逃れ、医学校に入学した。
卒業後はセントバーソロミューのガイズ病院にインターンとして勤めるが、そこで有名な医師ジョン・アバナシーと出会う。そして彼の研究グループに迎え入れられるが、ゲスナーの地質学への造詣の深さに驚嘆したメンバーたちから、医者よりも地質学者になることを勧められたのだった。
1872年にインターンの訓練を終え、ノバスコシア州パースボローに赴任するが、彼は患者を診ることよりも鉱物標本の収集に夢中になり、1836年ついに300ページにも及ぶ「ノバスコシアの地質学及び鉱物学についての所見(Remarks
on the geology and mineralogy of Nova Scotia)」を書き上げ、地質学者として名を挙げた。そうなると本業はそっちのけで、1837年からニューブランズウィック州へ炭鉱脈調査に行き、その翌年には政府の依頼で標本収集のため州内をくまなく旅行するが、あまりの熱中ぶりに調査経費を使い過ぎ、政府から給料と経費の両方は払えないと言い渡され、再び経済的に行きづまってしまう。
そこで自分の標本を展示する博物館を建てるが、この経営も失敗に終わる。政府からも解雇された彼は、生活のためコーンウォリスに帰って再び医者に戻るのだった。
その彼が、電気療法の実験をしているうちに電気工学に興味を持つようになり、またもや本業はそっちのけでついにエネルギーを直流電流に変える発動機を発明する。彼の知的好奇心はとどまるところを知らず、次は炭化水素の研究を始め、ニューブランズウィック州アルバート郡には燃える石「アルバタイト」があるという話を聞いた彼は、そこからケロシン(灯油)を蒸留する方法を発見した。なお彼は当初、蝋を意味するギリシャ語からこれを「ケロスレイン」と名づけていた。
当時、ランプの燃料に最も適しているのは鯨油であると考えられていたが、すぐに乱獲状態となり、捕鯨業者は遠くまで漁に行かなければならず、価格は法外に高くなっていった。そこで鯨油のほかにイグサを燃やすこともあったが、煙と悪臭を発するため、人々は新しい燃料を求めていたのである。
1846年、ゲスナーは測量のためシャーロットタウンへ行ったおり、教会でケロシン蒸留のデモンストレーションを行った。人々が見守る中、蒸留したケロシンのランプに火をともしたとき、煙はほとんど出ず、匂いもなく、実験は大成功だった。
1854年に蒸留法の特許が認可されると、ゲスナーは大枚はたいてアルバート鉱山での瀝青採掘権を購入し、北米ケロシン・ガス灯社を創立する。会社専属の研究員として腕を奮い、ケロシンのランプで世界中を明るくし、人々が夜の時間を有効に使えるようにしようと夢は果てしなく膨らんでいった。保存が効くケロシンの需要は鯨油を凌ぐようになり、彼はビジネスの成功を確信した。だが、アルバート鉱山の石炭採掘権を所有していたアルバート鉱業社に告訴されてしまう。彼はアルバタイトはアスファルトと同類の瀝青、すなわち炭化水素の固体であって石炭ではないので、石炭採掘権とは無関係だと主張した。ところがアメリカの地質学者チャールズ・ジャクソンが、アルバタイトは瀝青ではなく石炭だと主張して、これに「アスファルティック・コール」と命名した。実は彼は1832年に「ノバスコシアの一部における鉱物学と地質学に関する記述(Description
of the mineralogy and geology of a part of Nova Scotia)」という、ゲスナーの著書に酷似した論文を発表しており、ゲスナーが自著から盗用したと以前から非難していたのである。陪審員はこれに幻惑されたのか、アルバタイトは石炭であると誤った判断を下したため、ゲスナーの敗訴となった。かくして、彼が大枚はたいて手に入れた採掘権ではアルバタイトが採掘できず、しかもアルバタイトはアルバート鉱山でしか採掘できないため、アルバタイトからの蒸留法の特許があっても、肝心のアルバタイトの入手が不可能となってしまった。アルバタイトが固体の石油であることが判明するのは後年のことであり、ゲスナーは運に見放されていたとしか言いようがない。
またアスファルトを蒸留する方法は、コストがかかりすぎた。その後ケロシンが石油からも抽出できることが発見され、オンタリオとペンシルバニアで油田が発見されると、ゲスナーもケロシンを石油から抽出しようとするが、その方法では他社に莫大な特許料を支払わなければならず、経営は数年で破綻してしまう。彼は自分の特許を売却し、ノバスコシアに戻って三たび医者に戻ることを余儀なくされたのだった。
だがアラビアで大規模な油田の発見が続出すると、20世紀は石油の世紀となり、ケロシンは20世紀初頭には精錬や潤滑油、20世紀後半にはジェット機の燃料や暖房などで大々的に普及した。今日ではほとんどの石油精製企業がゲスナーの蒸留法を採用している。ゲスナーの時代にケロシンのあかりが道を照らすことはなかったが、彼は未来への道にあかりをともしたのだった。
[21] マルキス小麦誕生秘話−ある普通でない一家
William Saunders Sr. (1836−1914)
Charles Edward Saunders(1867−1937)
在来種レッドファイフ小麦は、秋の到来の早い中西部の気候に適さず、冷死することもしばしばだった。しかし新種マルキス小麦の登場により中西部は一大穀倉地帯となり、カナダは世界有数の小麦生産国にのし上がったのである。
ウイリアム・サウンダースはイギリスのクレディトンに生まれ、1848年オンタリオ州ロンドンに移民する。薬局を経営していたが、結婚すると妻のセーラは夫に勉強を奨励し、ウイリアムはついにウエスタン・オンタリオ大学薬学部教授となる。その後も動植物の研究を続け、蝶に関する論文を書き、昆虫学協会を結成して科学者として知られるようになった。
サウンダース夫妻はウイリアムJr.、アーサー=パーシー、チャールズ=エドワード、ヘンリー、フレデリック=アルバート、アニーの五男一女を生み、郊外に農場を作って品種改良の実験を始める。子供たちは物心がついたころから喜んで父の手伝いをしたが、同時にこの一家は音楽も好きで、一家でオーケストラを組織し、1882年にはコンサートまで開いている。一家の中で最も内気な三男チャールズは、フルートを担当していた。そして独り立ちする年頃になると、次男パーシーはトロント大学へ進み、チャールズもドイツ留学後、兄を追って1884年トロント大学に入って化学を学んだ。
1885年に大陸横断鉄道が開通し、ノースウエストの反乱が鎮圧されると、人々はこぞって中西部に入植し、「レッドリバー・フィーバー」と呼ばれるほどだったが、レッドファイフは9月の霜に耐えられなかった。収穫できなければ人々は貧しくなり、略奪に走る者も出て治安は悪化するだろう。だが新品種を開発すれば中西部の大平原を一大穀倉地帯にすることができ、入植もより盛んになるだろうと考えたウイリアムSr.は、政府に国立実験農場を開設するよう働きかけ、1886年4つの実験農場がオタワ、ブランドン(マニトバ州)、インディアンヘッド(サスカチュワン州)、アガシズ(ブリティッシュ・コロンビア州)に設立されると初代所長に任命された。
子供たちはみな父と同じ道に進むことを希望したが、父の才能を最もよく受け継いだのはパーシーで、大学を卒業すると父とともに品種改良に取り組み、新種のバラを創ることに成功し妻の名をとって「アグ
ネス」と命名した。だがチャールズは自分には父ほどの才能がないと悟り、トロント大学を卒業するとジョンズ・ホプキンズ大学大学院を経て、セントラル大学で化学と地質学を教えていた。
しかしチャールズはどうしても音楽の道に進みたくなり、大学を退職してボストンとニューヨークで音楽を学び、ヘイバーガル女子校とセントマーガレッツ女子校で音楽を教え、聖歌隊を組織し、「ザ・ウィーク」で音楽のコラムを連載する。美人メゾソプラノ歌手として有名なメアリー・ブラックウェルと結婚して、愛妻とともに一番好きだった音楽の世界で働き、満ち足りた日々を送るのだった。
話はここで終わらない。実験が思うように進まない父とパーシーから、仕事を手伝うよう催促され、一度は断わったものの、所長である父から一方的に任命書を送りつけられると、内気なチャールズは断わりきれなくなり、しぶしぶオタワに居を移し、実験農場に勤めることになったのだった。
来る日も来る日も、小麦を交配させては種もみを噛む単調な作業が続いた。そんな中でチャールズはインドのハードレッド・カルカッタに着目し、これにパーシーが作ったレッドファイフの新種マーカムを交配させて、1904年ついにマルキス小麦を生み出した。これはレッドファイフより短い藁を持ち、3日から10日早く成長し、そのうえ蛋白質を多く含み弾力性のある
練り粉を作ることができるため、中西部で広く受け容れられた。これによりカナダは世界第2位の小麦輸出国の地位にまでのし上がったのである。
話はここで終わらない。どうしても音楽の道は捨てがたく、チャールズは1922年に実験農場を退職し、55歳でソルボンヌ大学に留学して音楽を学び、1928年にはフランス語で「エッセイと詩」を発刊する。翌年帰国し、トロントで音楽とフランス文学を教えた。彼は後に「父の任務を終えたあと、自分の道に戻ったのだ」と語っている。1925年にトロント大学から理学博士号、1933年にはナイトの地位を贈られた。
なお長男ウイリアムJr.は父の薬局を継ぎ、鳥類研究者として評価された。次男パーシーは優れた科学者、教育者としてその名を歴史に残した。四男フレデリックは物理学者・鳥類学者となった。五男ヘンリーはチェロ奏者として世界にその名を知られた。アニーは写真家・音楽評論家となった。
[22] 電話事始
Alexander Graham Bell(1847−1922)
イギリスのエジンバラに生まれる。祖父アレクサンダーは元俳優で、言語矯正師となり、父アレクサンダー=メルビルも言語矯正師で、200版を越える「標準発声」の著者であり、また先天性聴覚障害者でも学べる発音記号「視話法」の考案者でもあった。母イライザ=グレースは音楽の才能があったが、後に聴覚を失った。三代続けて同じ名を持ったベルは、区別するため11歳のときグレアムのミドルネームを自分でつけたが、三代続けて聾唖教育に取り組むこととなった。
小・中学校に通わず、家庭で教育を受けたベルは、子供のころは母の影響でピアニストを志望していたが、父の講義を手伝ううちに音声学に興味を持つようになり、人の頭
蓋骨に樹脂で肉付けして「話す機械」を作ったりしたという。
高校時代からエルジンのウェストンハウス学園で教えていたベルは、エジンバラ大学とロンドン大学で音声学を学び、ロンドンの聾学校でも教鞭を取り、父の助手も務めていたが、当時流行していた結核で兄と弟を亡くしたため、一家は1870年に自然の豊かなカナダに移民し、オンタリオ州ブラントフォードに居を構える。
ベルは1871年ボストンに移り、ボストン大学教授そしてクラーク聾学校の教師となる。そこの生徒には、マサチューセッツ州セーレムの資産家トーマス・サウンダースの息子ジョージや、弁護士ガーディナー=グリーン・ハーバードの娘メーブル(後の妻)がいた。ハーバードは市の有力者で、交通と通信の発達に使命感を抱き、ボストン─ケンブリッジ間の馬車鉄道の開設や、ケンブリッジの上水道と街灯の普及などに尽力した人である。当時の電信は速度が非常に遅かったため、ハーバードは電信公社の設立運動を起こしたが、それはアメリカ最大の電信会社ウエスタン・ユニオンを激怒させた。同社はスターンズの二重電信、次いでトーマス=アルバ・エジソンの四重電信の特許を買い取ってハーバードの鼻をあかした。彼がベルと出会ったのはそんなときのことだった。
音楽好きのベルは19歳のとき、ヘルマン・フォン=ヘルムホルツが書いた「音の感覚」を読んで、初め電信で音楽を送ることを考えたが、サウンダースとハーバードの提言により、調和式多重電信(一本の電線による同時多量電信)の研究に転じる。ところが1875年のある日、助手のトーマス=オーガスタス・ワトソンが、実験中に振動しなくなった受信器の振動板をはずそうとして引っ張ったところ、かすかな音がした。回路に電流は流れていないのに、残留磁気を帯びた鉄片を引っ張ったら、その振動で波状電流を誘導し、送信器のリードを振動させ、音が発生したのである。このときベルは電磁誘導を使った音の電信(電話)を思いついたのだった。
彼は、父の友人でカナダの国会議員ブラウンを通じてイギリスで特許を申請するつもりでいたが、実はブラウンは電話に将来性がないと見て、申請書を握りつぶしていた。そこでハーバードは1876年2月14日午前11時に特許を出願。名称はギリシャ語のtele(遠い)とphone(音)にちなんで“Telephone”。だが同じ日の2時間後、イライシャ・グレイが液体電池の可変抵抗による“Telephone”の特許権保護願を出願したため、事態は混迷へと向かって行くことになった(なおグレイは1874年に調和式電信を発明している)。
特許権保護願とは、発明のアイデアを思いついた人が装置製作で他者に先を越されないよう一定期間優先権を持つことであり、グレイは自分の原理で音声が伝えられるかどうかまだ確認してなかった。一方ベルは電話機の製作こそまだだったが、自分の原理で音声が伝えられることを確認した「特許申請」であり、ベルが先んじていることは明らかである。
通常出願から認可まで何年もかかるものだが、半月後の3月7日にはベルの申請は特許174465号として認可された(その裏ではハーバードとサウンダースの政治力が働いた疑いが濃厚)。しかもその範囲は電磁誘導式のみならず、電話に関する全ての権利であった。しかしこの時点では、原理だけで電話機はまだ完成していなかった。ベルは装置の完成を急いでいたが、グレイ式電話が本当に有用なのかどうか試そうと思った。ところが3月10日夜、屋根裏部屋で装置を作るため硫酸を容器に入れていたとき、誤ってズボンの上にこぼしてしまう。彼は思わず、隣部屋に向かって壁越しにこう叫んだ。
“Watson,
come here! I want you!”
だがワトソンは、その声を受話器を通して聞いたのだった。これが電話最初の声である。
ベルの電話は、その年フィラデルフィアで開催された独立百周年記念博覧会に展示されることになったが、輸送中に破損してしまった。もし通話できなかったら、特許権にも影響しかねないため、ブラジル皇帝ペドロ二世が来場する日までに修理しなければならなくなった。ところが当日、皇帝の前でベルが電話の説明をしているとき、観衆の中に、調和電信機を展示していたグレイがいることに気がついた。ベルは受話器を皇帝に持たせ、
送話器から語った。
“To be, or not to be. That is the question.