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第3章 栄華を夢見て

 

 

[9] カサ・ロマの落日

    Henry Mill Pellat Jr.(1859−1939)

 

トロントの観光名所として知られるカサ・ロマを建てたヘンリー・ペラットは、見事な金の使いっぷりで市民に愛されたが、晩年破産し、一文無しのまま世を去った。

 

 オンタリオ州キングストンに生まれる。父ヘンリーSr.は銀行家だったが、南北戦争後の不況のため破産し、ペラットが生まれたときは一文無しだった。

 その後、一家は1859年にトロントに移り、ヘンリーSr.は株の仲買いを始める。彼が見込んだとおりトロントは人口が増加し、新しい産業が興り、既存の会社も事業を拡大したため彼のビジネスも成功した。

 ペラットは1876年アッパーカナダカレッジに入るが、3ヶテキスト ボックス: 正面から見たカサ・ロマ(トロント)。月で中退してクイーンズオウンライフル隊に入隊する。このころ短距離走者として頭角を現わし、1878年カナダマイルチャンピオンシップ、翌年には北米1マイル走に優勝している。

 だがこれを機会に彼はレースから遠ざかり、父の事業に参加し1883年ペラット&ペラット社を創立。その年トロント電灯社を創立するが、同社はトロント市と30年の街灯独占契約を結び、市域の拡大と人口の増大に伴い莫大な利益を上げた。また1885年に大陸横断鉄道が開通すると、西部に土地ブームが起こるのを見越してカナダ太平洋鉄道、グランドトランク太平洋鉄道、カナダ北西不動産の株を買い占め成功。1903年にはナイアガラ滝での発電独占権を3万ドルで購入し、オンタリオ電力開発を創立。同社は投資家から資本金600万ドルを募って創業したが、彼はすぐに発電の権利を600万ドルで同社に売却。濡れ手に粟のボロ儲けであった。さらに翌年オンタリオ州コバルトで銀鉱が発見されると、コバルト湖鉱業社を創立。そのほかトロント・ナイアガラ電力、ホームシティー不動産、トロント不動産、帝国生命保険、カナダ造船を創立し、トロント電鉄、ドミニオン鉄鋼、ウエストドーム鉱業、オフィル鉱業、マッキンチャー鉱業、モネタ・ポーキュパイン鉱業、ページ・パーシー鋼管、ウエスタン生命保険、カナダ生命保険、製造業生命保険、テキスト ボックス: ナイアガラ滝(カナダ側/オンタリオ州ナイアガラ・フォールズ)。オンタリオ汽船、カナダ汽船、ラパス石油などの取締役に就き、カナダの富豪23人の一人に数えられるまでになった。

 しかし彼は単なる金の亡者ではなかった。社会事業にも関心を持ち、トリニティー大学、グレース病院、救世軍、国教会などに献金し、1911年のジョージ五世即位時にはトロントの全児童に記念メダルを贈呈している。

 だが王党派の彼が最も心血を注いだのは、何と言ってもクイーンズオウンライフル隊だった。1901年司令官(階級は中佐)に昇進し、1902年のエドワード七世戴冠式では軍楽隊657 名を自費でイギリスに派遣し、その功によりナイトに叙せられる。1910年にも自費でクイーンズオウンライフル隊創設50周年セレモニーをCNE(博覧会場)で開催。またその年隊員635名を自費でイギリスのトレーニングセンターに派遣している。

 

 万事派手好きな彼の究極の贅沢は、カサ・ロマ(ラテン語で丘の館)の建設だった。1914年、トロント郊外の丘陵地に3年の歳月を費やして建てられたこの城は、部屋数98、暖炉25、電話52台、電灯5000、浴室だけでも38、ノルマンタワーとスコットタワーの2つの塔を持ち、世界で唯一電動エレベーターのある城である。最も見事なものは一階入口すぐの大ホール。樫材の梁の天井と、738枚のガラスから成る張り出し窓に囲まれたこの部屋には、7万5千ドルのパイプオルガンと、英国王が戴冠式のときに使うウエストミンスター寺院のものを模倣した玉座があり、ペラットの王権を象徴している。ピーコック回廊はウインザー城のものを模倣しテキスト ボックス: 軍服姿のペラット。ており、ビルマ産チーク材でできた床には釘が使われてなく、壁は樫材の手彫りである。応接室はドイツ職工が3年かがりで仕上げた樫のパネルで覆われており、オークルームと呼ばれている。ビリヤードルームにはスペイン産マホガニー製のビリヤードテーブル(3,800ドル)があり、ここで彼は設計者であり隣人でもあるEJ.レノックスと、象牙の球でよくプレーを楽しんだ。24×8メートルの図書室は、10万冊が収納でき、壁はフランス産胡桃材、床はカナダ産樫材でできたヘリンボーン模様、天井はエリザベス朝の仕上げになっている。食堂は100人以上が収容できる。東隅の温室は地中海様式となっており、天井はイタリア製ステンドグラス(1万2千ドル)のドーム、床もイタリア産大理石で、蒸気パイプで保温されている。彼はここで栽培した植物を園芸展に出展していた。書斎は壁はスペイン産マホガニー、床はカナダ産樫でできているが、来客と顔を合わせたくないときのために秘密の階段があり、テキスト ボックス: 庭園から見たカサ・ロマ。上は自室に、下は1,800ボトル収納可能なワイン貯蔵庫に通じている。二階の彼の浴室は大理石の浴槽で、当時珍しかった全角度から吹きつけるシャワーがある。

 地階には18×7メートルの屋内プール、ボーリングレーンが2面、ローラースケートリンク、ビリヤード場、50メートルのライフル射撃場があるが、これらは全て第一次大戦の影響による物資不足と、彼の財政的事情から未完成に終わった。そして244メートルの地下トンネルの先にはスペイン産マホガニー製の厩舎がある。城の背後は6エーカーの庭園で、そこでカナダグース、キジ、ふくろう、りす、七面鳥などを飼っていた。畜舎では牛も飼い、そこで搾ったミルクは温室で栽培された果実とともにペラット家の食卓に上げられた。

 このような超豪華設備を持つこの城は、ペラット自身が実際に世界各地を旅行して城を視察し、それぞれの長所を取り入れた「ノルマン・ゴシック・ロマネスク様式の融合」と呼んでいたが、専門家はこれを「17世紀スコット朝様式と20世紀フォックスの融合」と評したという。この巨大な城でペラット夫妻はパーティーを催し、クイーンズオウンライフル隊の全隊員を城に招いたのだった。

 

 カサ・ロマはペラットの夢だったが、同時に自らが所有する周辺の不動産を高級住宅街に変貌させる広告塔の役割も兼ねていた。だがそのセダーベール地区は、その周囲の庶民階級が住むアベニューロードヒルやローズデールなどの地区に比べ、地価が異常に高かった。

 1912年に彼は畑だったセダーベールを32万ドルで購入しているが、翌月にはそれを傘下のホームシティー不動産に120万ドルで売却し88万ドルの利益を得ていた。だが実際には土地を転がして地価を高騰させただけで、そこから何も産み出されたわけではなかった。株のディーラーとバイヤーの両方を兼ねていた彼は、好きなだけ株を売買して株価を上げ、地上げをして含み資産は勝手に増えていき、それを担保にホーム銀行から無尽蔵に融資を受けることができたのだ。だがトロントの人口が増えているときは土地も売れ、人口増加に伴い産業が活発になると、人々は株に投資したのでオンタリオ電力開発のときのような儲け方もできたが、第一次大戦が始まると人々は戦時公債や軍需産業に投資し、土地や株を買わないようになったため、彼は資金繰りに行き詰まっていったのだった。

 ペラットは自由党と密接な関係にあったが、1905年保守党は政権を握ると、オンタリオ電力開発の独占に異を唱え、翌年世界初の公営電力会社オンタリオ水力発電公社を設立する。より安価な電力供給を約束した大規模なキャンペーンを各方面で展開し、市民の支持を取りつけることに成功した。ペラットは新聞社トロント・ワールドを35万ドルで買収し、キャンペーンをやめさせるよう謀ったが、逆に世論の反発を買い、人々は公社に投資するようになったため、ついに1908年オンタリオ電力開発、1911年にはトロント電灯社を売却し、彼の独占(モノポリー)は終わりを告げた。

 カサ・ロマの建設費は25万ドルの予定だったが、終わってみれば300万ドル以上の大金を投じていた。またその評価税額は25万ドル、従業員の給与が年間2万2千ドル、光熱費だけで1万5千ドルもかかり、彼は170万ドルもの負債を返済できなくなった。そこでホーム銀行は興信所に彼の身辺を調査させたところ、彼の所有するドーズ・ロードの土地が、地価72万ドルとされていたが、実際の価値は15万ドルほどしかないことがわかった。1,700万ドルと言われた彼の資産は、どれもみなこのような上げ底状態であり、その実体はトロント経済成長期に地上げと株価操作で膨らんだバブルでしかなかったのである。

 ペラット一人の負債があまりに巨額なため、ホーム銀行はもはや彼の財政再建に自らの運命を託すほかなくなり、何とその後もそれ以上の融資を続けるという、今日ならば犯罪となる愚挙に出た。だが第一次大戦後の景気後退にはなすすべもなく、彼が多額の投資をしたグランドトランク太平洋鉄道とラパス石油が倒産する。彼の経営建て直しは絶望的となり、ホーム銀行も1923年ついに倒産し、彼は金の成る木を失ったばかりか、法的責任を問われかねない事態となった。するとホーム銀行の管財人ジオフリー・クラークソンはペラットの資産のほとんどを差し押さえに出た。彼の権勢の象徴だったカサ・ロマも差し押さえられ、退去を余儀なくされ、家具類が競売にかけられたが、王室から賜わったエドワード七世のブロンズ像が430ドル、大英百科事典が3ドル25セント、レイノルズ画のウォルポール像が2,700ドル、3,800ドルのビリヤードテーブルが875ドル、ルイ十六世のベッド1,100ドルが380ドルで飛ぶように売れ、この「カサ・ロマバザー」は新聞の社会面の記事にさえなった。ペラット王国の無残な最期であった。

 会社や資産を次々と手放していった彼は、カサ・ロマだけは手放そうとせず、1927年資本金100万ドルで「北米一の超豪華ホテル」カサ・ロマホテルをオープン、お抱え楽団のグレンクラブ・カサ・ロマ・オーケストラも組織された。借金の返済に充てるはずの4万5千ドルをカサ・ロマホテルに投資して、クラークソンを激怒させるほど執着したが、豪華すぎて宿泊費がべらぼうに高く、しかも住宅地にあってダウンタウンには遠く、観光には不向きで、わずか一年で閉鎖の憂き目にあう。ペラットはすでに借金地獄にはまっており、クラークソンの同意なしには何もできない立場になっていたが、彼に実業家としての資質がないと見たクラークソンは、以後彼を全く信用しなくなり、全ての経営から身を引き、ペラット&ペラット社をペラットの息子レジナルドに譲って実業界から身を引くことを強要した。1929年ウォール街の株式暴落でとどめを刺され、トロント市はペラットを破産させ、カサ・ロマと爵位を没収しようとする。このときクラークソンは、

「ヘンリー卿を破産させても市に何の利益もなく、ヘンリー卿が市の発展のためこれまでどれほど多くの貢献をしてきたかを思えば、市は破産勧告を撤回し、今の体調からして余命いくばくもないヘンリー卿に爵位を残す程度のことはできると考えます」。

という嘆願書を提出するが、市は爵位は残したものの1934年ついに彼を破産させた。

 博物館として残して欲しいとペラットが懇願するのを無視して、市は再開発のためカサ・ロマの解体を決める。だが解体には建設費と同程度の巨額の費用がかかることがわかったため、ダイナマイトで爆破することにしたが、破片が近隣に飛び散るため断念。焼却する案も出たが、カサ・ロマは耐火建築となっていたため、これも不可能となる。莫大な光熱費を要するカサ・ロマは、使用することも解体することもできないまま放置され、こうもりや鳩の住みかとなり、荒れ果てていった。

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 1937年、トロントの貴重な歴史的遺産であるカサ・ロマの荒廃を惜しんだキワニスクラブが、市よりカサ・ロマの使用を委任され、カサ・ロマはトロントの観光スポットとして再び脚光を浴びることになった。このとき祝賀パーティーに招待された、今は一文無しのヘンリー・ペラット卿は白内障で失明しつつあり、往年より30キロも痩せ、杖をついていた。スピーチを求められた彼は目に涙を浮かべながら、

「私はカサ・ロマを人々に楽しんでもらえる場として建てた。そしてこのクラブはその目的にかなってこの城を使い、多くの人々をこの城に導いている。これ以上のことはない。私は・・・・・私は満足だ。」

と語っている。この日が彼の最後のカサ・ロマ訪問となった。

 第二次大戦の足音が迫る1939年3月、彼は負債6,000ドルと現金185ドル8セントを残して世を去った。父子ともに戦争で破産した彼は、この戦争で多くの者が財産を失い、そして一握りの者が財を成すであろうことを知っていただろうか。翌日の新聞テレグラムはこうコメントしている。

「カサ・ロマはヘンリー・ペラット卿の破れた夢を後世まで語り継ぐだろう。それは人の世の栄華が永遠でないことを刻んだ(いしぶみ)として、今日も丘の上に建っているのだ」。

 

 

 

 

[10] 愛妻に城を建てた男−ダンズミュア帝国の興亡

   Robert Dunsmuir     (1825−1889)

    James Dunsmuir     (1851−1920)

    Alexander White Dunsmuir(1853−1900)

 

ビクトリア郊外に今も残るクレーグダロック城を訪れる人は多い。愛する妻のために建てられたというこの城に、ロマンチックな幻想を抱く人も多いだろう。しかし、実際の彼らの生きざまはどのようなものであったか、これは石炭王と呼ばれたロバート・ダンズミュアとその一族が辿った「実話」である。

 

 ロバート・ダンズミュアはスコットランドのハールフォードで生まれた。「ロバート・ダンズミュア」の出生証明書は存在せず、両親が誰なのかも不明だが、鉱夫の子だといわれている。彼は叔父のボイド・ギルモアとその妻ジーン・ダンズモア(Dunsmore)に育てられたが、ダンズミュアの姓もここから来ているものと思われる。養父母の姓がなぜ異なるのかなど、彼の出生については謎が多い。

ロバートはキルマーノック・アカデミーを卒業後、ハドソンベイ社の鉱夫となり、1851年ブリティッシュ・コロンビア州ナナイモ(バンクーバー島)に移住する。このとき故郷を離れるのを嫌がった妻ジョーン=オリーブに、将来スコットランドの城を建ててやると約束してなだめた。だが夫はそのとき貧しく、妻はその言葉を本気にはしていなかった。

 金鉱を探していたロバートは、1854年ナナイモ炭鉱を偶然発見し、2,340ヘクタールの借地権を得て、テキスト ボックス: ロバート・ダンズミュア。炭鉱経営を開始した。1869年にはウェリントン炭鉱を発見するが、海岸から5キロしか離れていなかったため巨万の富を築き上げ、その近くに社宅と5キロの鉄道のある街をつくった。そのため鉱夫たちがカナダのみならずアメリカ、イギリス、イタリアなどから続々押し寄せ、ウェリントンの街はにぎわった。

 しかしそのような福利厚生の一方で、彼は組合を徹底的に弾圧し、ストライキに参加した従業員を社宅から追い出し、不況のときは容赦なく解雇や賃金カットを断行し、政府の安全点検を拒否するなど暴君であった。このような経営姿勢に対し1871年、1874年、1876年と立て続けにストライキが起こり、1877年のストライキでは、彼の要請で軍隊から51人の兵士を動員し、投石して抵抗する組合員との間で乱闘となり、おびただしい数の負傷者を出した。この事件の結果組合側の10人が起訴され、1人が投獄された。ストライキに参加した従業員は二度と雇われることはなかった。そして相次ぐストライキに業を煮やした彼は、以後中国人を積極的に雇うようになる。彼らのほとんどは英語が不自由で、坑内の標識を読むこともできず危険な存在だったが、低賃金でよく働いた。

 1879年サウスウェリントン炭鉱社を買収し、1884年アレクサンドリア炭鉱を開き、1895年イーストウェリントン炭鉱を買収。1886年にはアメリカの鉄道会社とともにエスカイモルト&ナナイモ鉄道(115キロ)を完成させ、政府から報酬として75万ドルと80,940ヘクタールの土地を与えられ、バンクーバー島の約4分の1を所有し「ダンズミュア帝国」と呼ばれた。

 ロッキー以西で最も裕福であり、炭鉱、土地、鉄道、住宅、新聞社、海運会社、製材所などを所有して、市長をも凌ぐ実力者だった彼は、1882年ナナイモの代議士に当選し、政界と財界の両方でその権力を大いにふるって敵を多く作った。一度は石炭の計量をごまかしたかどで告訴され、また晩年は毎月のように脅迫状を送りつけられた。

 彼はその生涯で息子ジェームズ、アレクサンダー=ホワイト、娘エリザベス=ハミルトン(ブリーデン夫人)、アグネス=クルックス(ハービー夫人)、メリアン=ジョーン(ヒュートン夫人)、メアリー=ジーン(クロフト夫人)、エミリー=エレン(スノーデン夫人、バローズ夫人)、ジェシー=ソフィア(マスグレーブ夫人)、アニー=ユーフェミア(ゴー=カルソープ夫人)、ヘンリエッタ=モード(チャップリン夫人)を生んだ。晩年にはビクトリアに約束の城の建設テキスト ボックス: クレーグダロック城(ビクトリア)。を始め、民謡アニー・ローリーにちなんでクレーグダロック城と名づけたが、1889年の完成を見ることなく世を去った。未亡人ジョーンは娘たちが嫁に行くのを見届けてから、65万ドルを投じて建てられた城に、1908年に世を去るまで一人で暮らした。

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 バンクーバー島で生まれた最初の白人である次男アレクサンダーは、幼少のころから利発で、級友たちからも一目置かれる存在だった。兄ジェームズとは仲良しだったが、兄がアメリカに留学していたためよく長男に間違えられたという。1878年から父の事業を手伝い、サンフランシスコの事務所で勤め始め、商才を遺憾なく発揮し、両親は彼を後継ぎにしようと考えた。だが下宿先のウォーレス家の人妻ジョゼフィン=ウィルバーと道ならぬ恋に落ちる。彼女は離婚し、前夫との子エドナーとともにアレクサンダーは新しい生活に入るが、母ジョーンに結婚を反対されたため酒に溺れていき、次第に人格に変調を来していった。エドナーは新しい、そして酒乱の父親に全くなつかないばかりか、世間の白い目に耐えきれず家出を決心する。このときアレクサンダーは、

「お願いだから出て行かないでくれ。パパとママといっしょにいてくれ。欲しい物は何でも買ってやるテキスト ボックス: アレクサンダー・ダンズミュア。から。ジェームズおじさんに頼んであげるから」。

と泣いて懇願したが、娘の決心が固いことを知ると、

「どんな手を使ってでも止めてやる。どうしても出て行くって言うなら、自分の生活の面倒は自分で見るんだな。どうだ、それなら出て行けないだろう。─(猫なで声に変わり)でもこの家にいるなら何でも買ってやるぞ」。

かつて級友たちから尊敬された人柄は、もはやその面影すらなかった。

 アレクサンダーが裕福な生活を送れたのは会社があったからで、ジョゼフィンと結婚すれば母に会社を追放されることは目に見えていた。それでロバートが死亡したときもジョーンは遺産を息子たちには譲らなかった。しかし弟の苦境を見かねた兄ジェームズのはからいにより、兄弟たちはエクステンションおよびウェリントン炭鉱と鉄道を譲り受け、アレクサンダーはようやく1899年、18年の内縁関係に終止符を打って極秘に結婚する。彼は正式に妻となったジョゼフィンのため、オークランドにギリシア風の白亜の豪邸「ダンズミュアハウス」を建てるが、激怒した母についに勘当されてしまう。2人はニューヨークへ新婚旅行に出かけるが、すでに重症のアルコール中毒となっていたアレクサンダーは、汽車の中で様態が急変し、わずか40日の結婚生活を残し48歳の若さで生涯を閉じた。ジョゼテキスト ボックス: ダンズミュアハウス(オークランド)。フィンは4万8千坪の土地に建てられた部屋数37の豪邸に一人で暮らすことになったが、そのわずか1年後に死亡した。

 アレクサンダーが莫大な遺産を兄に譲る遺言状を残したため、ジェームズは母と姉妹たちを相手に骨肉の法廷闘争を繰り広げることとなった。母ジョーンはあれほど忌み嫌っていた未亡人ジョゼフィンと団結し、裁判でウェーター、バーテンダー、駅員、コールガール、しまいには精神科医など役に立たない証人を80人以上も集めて世の失笑を買った。最後は英国枢密院にまで提訴したが、ジョゼフィンが1901年に病死し、1906年ついに城主とその娘たちの敗訴が確定した。

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 長男ジェームズSr.は、両親のバンクーバー島への移住の途中、ワシントン州バンクーバーに生まれる。この金髪の珍しい赤子は、よくインディアンに盗まれたという。16歳で機械工見習いとなり、バージニア兵学校を出た後父の事業を継ぐ。彼も父と同じように組合を弾圧し、東洋人を好んで雇った。1900年エクステンション炭鉱とレディスミス炭鉱を開き、オイスター湾岸を開発。ウェリントンにある教会諸派に多額の献金をして発言力を持ち、諸教会をレディスミスに移したためレディスミスはブームタウンとなり、ウェリントンは人口が激減していった。

 彼は1898年保守党に入り政界へ進出、1900年から1902年までブリティッシュ・コロンビア州首相、1906年から1909年まで副総督を務める。だがこれは、ヨットと狩猟が好きで内向的な彼の本意ではなく、社テキスト ボックス: ジェームズ・ダンズミュア。交好きな妻ローラの希望だったという。1908年に建てられたハトリー城の中で、妻は婦人解放運動、チャリティー、教会活動などにいそしんだ。

 こうして政界と財界の頂点に立ったジェームズSr.の前に、エネルギー革命の波が静かに押し寄せていった。石炭はその地位を石油に奪われつつあり、コストは上昇し、炭鉱は枯渇しつつあった。彼は1905年エスカイモルト&ナナイモ鉄道をカナダ太平洋鉄道へ、1911年には炭鉱をカナダ炭鉱へそれぞれ売却し、実業界から身を引いた。帝国はその終焉に近づきつつあった。

 ジェームズSr.はその生涯で息子ロバート=ウイリアム(18771925)、アレクサンダー=リー(18861887)、ジェームズJr.18931915)、娘セーラ=バード(オーデイン夫人)、ジョーン=オリーブ=ホワイト、エリザベス=モード(ホープ夫人)、ローラ=メイ(ブロムリー夫人)、エミリー=エリナー、ジョーン=メリオン(スティーブンソン夫人)、ジェシー=ミュリエル(モリュネー夫人、ウィングフィールド夫人、ケーステキスト ボックス: ハトリー城(ビクトリア)。夫人)、キャサリン=ユーフェミア(ハンフリーズ夫人)ドーラ=フランセス(キャベンディッシュ夫人)を生んだ。彼は一滴の酒も飲まず、家庭を愛する父親であり、末娘ドーラと、長女の息子ジェームズ=ガイ=ペインとともに階段を駆けずり廻る「インディアンと熊」ごっこが大好きだった。ある日副総督官邸を訪れた人が、子供と間違えられて、いつも暖炉の上に飾ってあるはずの熊の毛皮を着た副総督が、物陰からいきなり飛び出してきて、対応に困ったという逸話がある。

 ジェームズの娘たちはみなイギリスで学び、その後ドイツで音楽を学んだ。ヨーロッパの洗練されたファッションに身を包んで帰国した娘たちは、「ダンズミュア・キッズ」と呼ばれ人々の羨望の眼を受けた。ジェームズは娘たちに、家柄が高くかつ能力のない人物と結婚するこテキスト ボックス: ハトリーパークの日本庭園(ビクトリア)。とを望み、そしてほとんどの娘たちはその期待に応えた。

トランプとスコッチウイスキーが好きだった帝国の始祖ロバートの血は、疑いもなく孫たちに受け継がれており、特に五女エリナーは、女性が賭け事をするのがまだ珍しかった時代に、ショートカット、ビロードの黒いジャケットに短いスカートを履いてモンテカルロ、ニース、カンヌのカジノに出入りし“La Riche Canadienne(裕福なカナダ婦人)”と呼ばれていた。しかし彼女は倍率も知らずに賭けていたほどお粗末で、大金を使い果たし、支払い請求がビクトリアの実家に山のように届けられ、危うく投獄されるところを、姉の夫で海軍大将のブロムリー氏に肩代りしてもらうはめになり、実家へ連れ戻された。

姉エリナーの悪影響か、若くして夫を亡くした六女メリオンと、最初の夫と別れた七女ジェシーはパリのナイトクラブに入り浸り、出演する下積み芸人たちにお金を湯水のように与えた。彼らにとってこの石炭王の娘たちは金山のように見えたことだろう。しかし1929年のウォール街の株式暴落は「ダンズミュア・キッズ」にとってもただごとではなく、2人ともビクトリアの母のもとに連れ戻された。

八女キャサリンは映画に夢中になり、ブリティッシュ・コロンビア最初の有声映画の製作で巨額の損益を計上した。また九女ドーラは、移り気な俳優タルラー・バンクヘッドの面倒を見ることに40年の歳月と莫大な資産を費やした。だが12人の子を生んだその母ローラに至ってはさらにたちが悪く、男性を相手にトランプの「500」で賭けるのが好きだったが、相手は負けた場合夜の相手をさせられたという。

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 ジェームズSr. の長男ロバート=ウイリアムはサンフランシスコの事務所に勤め、23歳で結婚するが、ビリヤードの腕はプロ級という彼は若いころからの放蕩癖が直らず、14年で離婚し、親の怒りをかってカナダ追放の身となり、アルゼンチンに住んだ。彼は3年後に再婚し、3人の娘を生んだ。

 ロバート=ウイリアムは1922年、ペルー政府から4000キロの鉄道敷設を依頼され、蒸気船モーリタニア号の上で商談することになった。最初の2日はうまく運んだ。だが3日目に酒を出されたのが悪く、商談が成立したとき、彼は興奮して船内を走り廻り、海へ飛びこもうとして取り押さえられるという失態を演じた。商談はご破算となり、あきれた母によって彼は会社のポストからはずされ、妻子とも引き離されシンガポールに追放され、残りの生涯をホテルで孤独に過ごした。

 次男を幼くして亡くした父ジェームズSr.の関心は、三男ジェームズJr.に向けられた。モントリオールの銀行に勤めていた彼は堅実な性格で、親に金を無心することもなく、父は彼を後継ぎにしようと考えた。だが第一次大戦中の1915年、ルシタニア号がドイツ潜水艦に撃沈され悲運の死を遂げる。ビクトリアのクラブで飲んでいた兵士たちはそのニュースを聞いたとき、屋根にユニオン・ジャックを掲げ、愛国的な歌を歌い「ドイツに乾杯!」と叫んだという。

最愛の息子に先立たれ、出来そこないの長男を抱えたジェームズは悩みと失意のうちに5年後世を去った。長男ロバート=ウイリアムは男子がないまま世を去り、ここにダンズミュアの家は断絶する。なおアレクサンダーの継子エドナー・ウォーレスはブロードウェイで有名な女優となり、コメディアンのド=ウォルフ・ホッパーと結婚した。またジェームズSr.の長女セーラ・オーデインの長男ジェームズ=ガイ=ペイン・オーデインは後に作家となり、「炭鉱から城へ」「アレックス・ダンズミュアのジレンマ」などの作品を書いているが、この中で5歳のとき初めて曾祖母ジョーンをクレーグダロック城に訪ねた思い出について、「建物の雰囲気といい、こんなところに一人で住んでいる老婆といい、いかにも異様で、とにかく早く家に帰りたかった」と述べている。余談だが、クレーグダロック城は映画「キャッツ&ドッグス」で、世界征服を企む猫の首領の棲家としてロケに使用されている。

 

 城主ジョーンが死亡した後、娘たちはクレーグダロック城に住みたいとは思わなかった。城の敷地はグリフィス・ヒューズ氏が購入し、144の区画に分割して販売した。城は区画を購入した者へのくじの賞品となり、ソロモン・キャメロン氏が当選したが、彼はほかの土地を購入するため城を抵当に入れ、しかもビジネスが成功しなかったためモントリオール銀行へ抵当流れとなった。第一次大戦中は病院として使用され、その後ビクトリア市が購入してビクトリアカレッジ、次いでビクトリア教育委員会となり、1994年クレーグダロック城歴史博物館に1ドルで売却された。

アレクサンダーの残したダンズミュアハウスは、ジョゼフィンの死後その娘エドナー・ホッパーが相続するが、維持費がかかりすぎるため、1906年にネバダ・ナショナル銀行頭取の息子アイゼアス・ヘルマンJr.氏の別荘となり、オークベールパークと改称されるが、地震で損壊した後放置された。1962年に市の所有となり、研究協議センターとして使用され、一帯はサウサーパークと改称されたが、1989年からダンズミュアハウス&ガーデンズ社に無償で貸与されている。ダン・カーチス監督はダンズミュア家にまつわる因縁が気に入り、家が人を食うというホラー映画「家」の舞台としてダンズミュアハウテキスト ボックス: 1976年の映画「家」。スを選んだ。なおアレクサンダーがジョゼフィンと出会った町プッシャーは、1886年ダンズミュアと改名された。ジェームズの残したハトリー城は、ハトリーパークとともに今日ロイヤル・ローズ大学が占有している。

 ナナイモ、サウスウェリントン、エクステンション、レディスミスの各炭鉱はダンズミュア家の手を離れた後もずさんな安全管理の中で事故を続発させ、1912年2年間に及んだ“The Great Strike”が起こり、このときも経営者側は軍隊を導入している。ストライキ終了後、参加者は復職を許されなかったため街を去り、炭鉱の街の衰退に拍車をかけた。各炭鉱はいずれも1930年代に閉鉱した。

 

 

 

 

[11] バンクーバーを築いた男

   John Deighton (Gassy Jack)(1830−1875)

 

 石畳とガス灯に彩られた、バンクーバー発祥の地ギャスタウン。その中心メイプルツリースクエアに、酒樽に乗った男の銅像がある。彼こそバンクーバーの礎を築いたギャシー・ジャックである。その名と姿が示す通り、彼はおしゃべりで大酒飲みだったとツアーガイドたちは説明するが、いったいなぜ彼は銅像になったのだろうか。そしてなぜ彼は酒樽に乗っているのだろうか。

 

 ほら吹きジャックことジョン・デイトンはイギリスの港町キングストン・アポン・ハルで、染物屋の父リチャードと母ジェーンの間に、6人兄弟の末っ子として生まれる。兄弟たちは船乗りになって外国を旅することにあこがれたが、兄トムとリチャードJr.が名門校トリニティーハウスで学び、航海士としての訓練を受ける機会が与えられたにもかかわらず、ジョンは初等教育しか受けず、放置されていた。ジョンが生まれたときジェーンが40歳と高齢だったことから推して、庶子だった可能性が高い。1870年に彼がバンクーバーから、ハルにいるトムに宛てた手紙に、

「アン(姉)は元気だ。母は、たぶん元気だろう。」

と書かれているが、ハルに住んでいるジェーンのことをトムに告げるのは不自然なため、ここで言う「母」とはジョンの母であろうと推察される。またこの手紙からアンとトムが音信不通だったことが伺え、複雑な家庭環境を思わせる。

テキスト ボックス: ギャスタウンに立つギャシー・ジャック像(バンクーバー)。 いずれにせよジョンにとって家の居心地は良いとは言えず、14歳で家を出て船乗りになるが、カリフォルニアで金鉱が発見されると、一獲千金を夢見て1853年サンフランシスコへ向かった。彼はそこでいくばしかの金塊を掘り出すが、酒と女に明け暮れてすぐに金を使い果たしてしまう。

 ところが降って沸いたように1858年、フレーザー川で再び金鉱が見つかった。彼はさっそくブリティッシュ・コロンビア州ヒルズ・バーへ行って金を掘り始めるが、何も得ることなく去って行くこととなった(そこは今日ギャシー・バーと呼ばれている)。彼は金探しをあきらめ、フレーザー川で山師たちを運ぶ船で働くことにした。そして当時の州都ニューウエストミンスターに居を移して、蒸気船ヘンリエッタ号の乗組員となり、ついには船長となった。1862年にはインディアンの娘と結婚する。教会でではなく、彼らの風習に従い、花嫁の父に贈り物を捧げてのものだった。

 だがジョンはこのころ心臓を病み、船乗りを続けられなくなってしまう。しかし彼には考えがあった。ゴールドラッシュの街々で酒場や宿屋が繁盛するのを、彼は見たのである。そこで1862年ニューウエストミンスターにある宿泊施設付き酒場「グローブ・サルーン」を買収し、妻とともに働き始めた。

 店の経営が軌道に乗りかかった1867年、店を船乗り仲間だったアメリカ人に預け、ジョンは妻を連れてダグラススプリングへ療養に行った。この年の7月1日、カナダ自治領が成立(建国記念日)したが、ブリティッシュ・コロンビアはまだカナダではなく植民地だったため、何のセレモニーも行われなかった。ところが7月4日のアメリカ独立記念日は違った。店を預かったアメリカ人が客と一日中どんちゃん騒ぎをし、店の酒を全部飲み、店の金も全部ロケットやクラッカーに使い果たしてしまったのだ。ジョンは帰って来て腰を抜かした。

 だが彼はくじけなかった。ニューウエストミンスターはフレーザー川が三つに分かれる地点に位置する港町で、上流で金を掘る人々に物資を補給する中継地として、ゴールドラッシュ時代ににぎわった花の都であり、一方バラード入江は終点に港町(ポートムーディー)があるほか、ヘイスティングズ村(今のパシフィック・ナショナル遊園地付近)に別荘が散在する程度で、ウエストエンドは人跡未踏の森、その先にはインディアンの住むホイホイ村(現スタンレーパーク)があり南岸は未開地で、北岸はインディアンの集落があり、入江は当時インディアンのカヌーが往来していた。入江でありながら流れが急で、風向きが変わりやすく港として不適切な「役立たずの窪地」と見られていたこの地に、彼はいつの日か港ができることを予見していたのである(ゴールドラッシュが過ぎ、州都がビクトリアに移るとニューウエストミンスターは一時ゴーストタウン化する)。彼は住み慣れた都を捨て、バラード入江の南岸で再び酒場を経営することに決めた。当時ギャスタウンにはブリティッシュ・コロンビア&バンクーバー島製材所があり、周囲の木を伐採した跡に従業員の掘立小屋や売店があったが、経営者エドワード・スタンプは酒嫌いで酒を売らなかったため、従業員は何とニューウエストミンスターまで30キロの距離を歩いて飲みに行ったのである。ジョンは妻とその母、そして妻のいとこピート・ウイリアムズを連れて、犬1匹、鶏2羽、毛布、飯盒(はんごう)、蝋燭、斧、大工道具、鍋、フライパン、壊れかかった椅子2つ、そしてウイスキー1樽をカヌーに乗せてニューウエストミンスターをあとにした。ポケットには6ドル、これが全財産である。ジョン・デイトン一世一代の賭けであった。

 カヌーはインディアン語でラック・ラッキー(楓の木立)と呼ばれるところ(現ギャスタウン)に着いた。ジョンが製材所の従業員に、ウイスキーと交換で酒場を建てないかと誘ったところ大勢の人が集まり、酒に飢えていた彼らはたった一日でキャロルストリートとウォーターストリートの角(今のメイプルツリースクエア)にグローブ・サルーンを再建した。客相手に大げさな冒険談を語る彼はギャシー (ほら吹き)・ジャック(ジョンの愛称)と呼ばれ、従業員のたまり場となった店は繁盛し、街もしだいに開けていった。これがバンクーバーの始まりである。

 ところがギャスタウンは実は政府の土地であり、個人が勝手に所有することはできなかった。政府は1870年に街を測量して区画整理を行い、グランビル卿にちなんでグランビル村と命名する。土地はその年競売にかけられたが、インディアンが混在する田舎町にしては地価が法外に高かったため、住民の多くは土地を買わずヘイスティングズ村へ移って行った。しかしグランビル村の将来性を見込んでいたジョンは土地を買い、酒場やプールバテキスト ボックス: デイトンホテル跡地にあった看板。ーのある2階建ての「デイトンホテル」を建てた。ここが今日バンクーバーの番地起点(キャロルストリートとオンタリオストリート)となっているところである。

 長くジョンを支えてきた妻がその年病死し、ジョンは妻の姪で12歳のマデライン(クワベルヤ)と再婚して、翌年長男リチャード=メイソンを生む。そしてそのころ兄のトム夫妻が借金を抱えていたので、ジョンはその肩代わりの代償としてホテルで働いてもらおうと思い、1873年に兄夫婦を呼び寄せた。だが2人はグランビル村に着いて仰天した。泥道の上をインディアンや製材所の荒くれ男たちが行きかい、人々は掘立小屋に住んで豚を飼い、英語を話さずチヌーク語を話すのである。裁判所でさえチヌーク語を使ったというから、当時は今のバンクーバーよりはるかに多様文化的だったのだろう。だがこの時代のイギリス人にインディアン文化への理解などあるはずもなく、兄夫婦はマデラインとリチャードをいじめて、インディアンの部落へ追い帰してしまった。

 そこでジョンは兄夫婦にホテルを任せ、妻子を呼んでニューウエストミンスターに戻ってともに暮らすことにした。ところが兄夫婦の経営は思わしくなく、借金をため込んでしまったため、ジョンが再び経営に乗り出すこととなった。

 しかしジョンの持病は良くならず、ついに病の床に倒れる。嵐の夜に彼が危篤状態に陥ると、長年かわいがってきた犬が遠吠えを始めた。見舞いに訪れた友人はそれを聞いて、

Oh, you're a son of a bitch.

これがジョンが生涯で最後に聞いたせりふだった。

 息子リチャードもその年病死し、ジョンの遺産は母ジェーンに相続されることになったが、彼女はなぜか受け取りを拒否した。マデラインはインディアンの部落に戻っていとこのピート・ウイリアムズと再婚し、1948年ノースバンクーバーで生涯を閉じた。

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 グランビル村はジョンが見込んだ通り、その後も港町として発展を続け、1886年には市政が敷かれバンクーバー市となる。中心街はその開拓者にちなんでギャスタウンと呼ばれるようになったが、その年バンクーバー大火が起こり、デイトンホテルも灰となった。街が復興したときには中心地はヘイスティングズへ移っていき、ギャスタウンは倉庫街となり、浮浪者のたまり場となり果てていた。だが1969